戊辰の戦後処理、塩竃神社宮司、遠藤允信(宮城県)
講座、龍澤潤先生「隅田川沿岸の産業史」の資料に、「1873明治6年隅田川東岸の旧仙台藩蔵屋敷敷地に、官営深川摂綿篤(セメント)製造所設置」というのがあった。東北の雄、仙台藩の蔵屋敷が戊辰戦争から5年たらずで、明治政府のセメント工場(のち浅野セメント会社)になったのだ。江戸から東京へ移り変わりが目に見える。
江戸の終焉、戦争が避けられないものとなったとき、派遣されていた蔵役人は江戸深川を引き揚げ、東北の何処の戦場で戊辰戦争を戦っただろう。
ところで、仙台藩は東北の雄藩として奥羽越列藩同盟の主軸となったが、藩論は一定していた訳ではなく、勤王論、佐幕論、その中間の割拠論などあり激しい抗争があった。
勤皇派・遠藤允信は、佐幕順応説の宿老・但木土佐(ただきとさ)に対抗して敗れ閉門を命ぜられ、のち情勢が変わると返り咲く。その経緯を見ると戊辰戦争前後の仙台藩が見える。おそらく諸藩でも似たような事態があったと思われる。
遠藤 允信 (えんどうさねのぶ)
1836天保7~1899明治32年
仙台藩家老・遠藤大蔵の長男として仙台城下片平町に生まれる。名は文七郎。
藩校・養賢堂で朱子学を学び、山鹿素行に私淑し皇室尊崇を説いた水戸学に傾倒した。
1855安政2年、家督を継ぎ家老職につく。その容貌は面長で鼻高く、目涼しく、身長5尺8寸余、言語明快、気品高く風格があった。政治家と言うより幕末志士型の人物のようであった。
1862文久2年2月、藩主の命により上京。
各藩の勤王の志士と交わり京都の情勢を探り、朝廷に勤王の意を披瀝すべきと藩に建言して容れられる。藩の使者として京都に赴き、関白近衛忠煕に諸藩に攘夷実行をうながすことを誓った。尊攘派のなかでも「年少気鋭、思うて言わざるなく、言うて尽くさざるなく常に気炎を吐く」遠藤は、但木にとっては目の上のこぶであった。
文久3年4月、但木は策を講じ遠藤ら尊攘派一党を閉門に処し、遠藤は領地の栗原郡川口に蟄居、隠棲した。
1868慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が薩長軍に敗れ、討幕派の主導権が確立された。このとき上京していた但木土佐も国許の重臣藩士らがあまりに形勢を知らないことに気付いた。このとき、仙台藩が会津討伐を申し出たなどの諸説、また風説あり。
戊辰戦争が勃発し仙台藩に会津藩討伐の勅命が下ると、藩主伊達慶邦は、平和手段を以て朝廷と会津との間を繋ごうとした。その間にも奥羽鎮撫総督の一行が京都を発したことが伝えられたが、青葉城内で議論は沸騰するも一兵も出されず何も決断されなかった。
蟄居中の遠藤は再三のお召しで登城「徳川氏の罪状を数え、会津の逆を鳴らし、朝廷に奏請、わが藩力を挙げ討伐すべし」と主張したが顧みられず再び閉門となった。
戦争がはじまると次第に、奥羽の地に新政府軍の旗が翻るところが多くなった。それでもなお、主戦論を唱え最後まで戦おうという藩士がいたが、敗戦が続くと次第に降伏に傾く者が多くなった。今や藩の存亡のときである。遠藤が登城、降伏論を開陳してまもなく執政を命じられた。
1868慶応4年8月、新政府軍は会津若松城を囲む。まだ戦いのさなかの9月8日、明治と改元される。
9月12日仙台藩は降伏と藩議が決定、藩主は直書をもって臣下に諭旨。遠藤は降伏謝罪使をつとめ、政府軍に嘆願書を提出。そのため、仙台にいる旧幕臣、榎本武揚、土方歳三らは仙台を去ることになった。
遠藤「卿らの行動は任侠に類す。然もその事は決して成るべからず。死する決心ある乎」
榎本「もちろんだ」。
いっぽう藩内では帰順反対の運動もあり、星恂太郎の額兵隊が仙台藩のために気を吐いた。〔当ブログ2014.7.19五稜郭で戦う赤衣の額兵隊隊長、星恂太郎(宮城県)〕
9月22日会津藩降服。なお、榎本ら旧幕府軍は函館五稜郭で翌年にかけて最後の抵抗を試みたが壊滅、戊辰戦争は終結した。
1869明治2年、遠藤は京都にあって薩長土肥の版籍奉還上表を聞き、それにならうべきと藩に建言。
この年、待詔院(明治初年の議政機関・集議院)下局に出仕。次いで、仙台藩*大参事に任命された。
*大参事: 版籍奉還後の地方官。知事の補佐。
1870明治3年、神祇少佑(*神祇官)に出仕、従六位に叙せられる。神祇官廃止と共に式部寮(文官の人事一般を司る)7等出仕に転じた。
*神祇官: 祭政一致で神祇・祭祀・行政を司る。
1871明治4年、権少教正に補せられ氷川神社宮司を兼ねる。のち都々古別神社、平野神社などの宮司を歴任、明治15年3月辞める。
1891明治24年7月、*国弊中社志波彦塩竃神社宮司に任ぜられる。
*国弊中社: 明治維新後の官。神祇官が祭るものを官幣社、地方官が祭るものを国幣社とし、おのおの大・中・小に分け、いずれも国庫から奉幣、国家神道として性格を示しこれにともなって新たに府・県・郡・村社の制も定められた。1945昭和20年、国家神道廃止により府・県・郡・村社の制とともに廃止になった。
この塩竃神社宮司時代、『塩社史料』『塩社略史』の編纂をはじめ多くの功績を残した。
1899明治32年4月20日、老いをもって退官したこの日、病で没す。64歳。
参照: 『近世日本国民史・第75』徳富猪一郎1944明治書院 / 『明治時代史事典』2012吉川弘文館 / 『仙台藩人物叢誌』1908宮城県庁
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コメント
初めまして。
検索していて、こちらのブログを拝読させていただきました。私の高祖父が遠藤允信の庶子と我が家では伝わっており、実家には允信筆の命名書が飾られています。祖父も栗原市一迫出身です。記事以外でも遠藤允信のことを教えていただけましたら幸甚です。
投稿: kuma | 2015年7月18日 (土) 13時02分