花巻出身の明治女学生、佐藤輔子と山室機恵子 (岩手県)
春三月は卒業シーズン、遠い昔に私も女子高を卒業した。女子高を選んだのは中学校が荒れていて男子が居ない方がいいと思ったから。高校では試験の一夜漬けは得意、あとは楽しく読書三昧。徹夜読書で授業中つい居眠り、コラコラと起こされた。担任は叱りながらも「赤毛のアン」シリーズが刊行されるたび下さった。
それにしても今どき女子高校生の制服、どれも可愛いいし十代は何を着ても似合う。花の命は短い、楽しんでと思う。ところで、明治の昔は制服どころか女子の進学は容易ではなかった。
資産があっても女に学問は要らない、妻が本を読むのを嫌がる、そんな風潮だった。その時代に東北から上京、女学校を卒業した佐藤輔子と山室機恵子の二女性。二人とも宮沢賢治と同じ花巻地方出身で賢治が生まれる前、明治女学校を卒業したが、二人の在学中とその後の人生はかなり対照的。
明治女学校は、キリスト教主義だがミッション経営でなく日本人の手になる女学校。
1885明治18年、木村熊二・鐙子夫妻、巌本善治らが創立。創始者木村熊二は戊辰戦争時、彰義隊に加わり上野の山に立て籠もった。明治維新後、官軍の詮議が厳しく変装して徳川慶喜が移住した静岡に身をひそめた。のち、薩摩出身の森有礼に従ってアメリカに渡り医学や神学を学び1882明治15年帰国。
東京下谷の借家に住み、下谷教会婦人部の学校を始めた。これが明治女学校の前身、下谷教会には牧師・植村正久がいた。
明治女学校の教師に北村透谷、島崎藤村らがいて、一時期、津田梅子も教えていた。生徒は山室機恵子、羽仁もと子、相馬黒光、野上弥生子らがよく知られる。ほかに『お百度詣』の作者・大塚奈緖子もお抱え車で聴講に通っていた。
佐藤輔子(さとうすけこ)と島崎藤村
――― お輔さんは花巻の生まれで、雪国の人らしくほんとうに色が白く、頬がさくら色して、ぱっちりとしたうるおいのある眼が当時の世間の好みとしてはやや大きすぎるくらい、その眼がひとしお印象を深くしました。背もすらりとして、心だてもその通り、富も理解もある家庭にのびのびとして育った人の素直なやさしい性格
(相馬黒光『黙移』)
その輔子に教師の島崎藤村が恋をし、生まれたのが小説『春』。朝日新聞に1908明治41年春から連載された。物語は藤村22歳の夏から25歳の夏まで文学界同人らの青春群像を、同じ教師の北村透谷と藤村自身に焦点を当て日清戦争を間にした転換期に、自我に目覚めた青年たちが古い道徳に苦しみながらも、それぞれの欲求に生きようとする姿を、挫折を含めてあるがままにたどっている。
(『現代日本文学大事典』猪野謙二)
佐藤輔子には故郷に許婚があり藤村の恋は実らず、輔子は卒業後結婚してまもなく悪阻で死んでしまう。二人のプラトニック・ラブの挫折は校内で知らぬものなく、熱の入らぬ藤村の授業に 「ああもう先生は燃え殻なのだもの、仕方がない」と思ったという。
(『東京人』明治の女学校伝説・森まゆみ)
若い教師と生徒、北村透谷と教え子の斉藤冬子との悲劇のロマンスも伝わる。
山室機恵子(やまむろきえこ)社会事業家
1874明治7年12月5日、岩手県花巻川口町の佐藤庄五郎・安子の長女として生まれる。開放的な素封家の佐藤家は、花巻地方で女子が高等小学校にはいるのは絶無であったが、親は機恵子の勉強好きにまかせ学校へ通わせたばかりか、漢学を須川他仙に学ばせた。
機恵子の父庄五郎は、養蚕製糸業のかたわら日曜日には漢学の先生を自宅に招いて、小学校の先生たちに講義を聞かせたり、夜学を開いて村の若者を教育するなどした。
1881明治14年、明治天皇の東北巡幸の折、庄五郎は蚕業奨励を以て若干金を下賜された。
1891明治24年、機恵子は上京して、同じ川口町出身の国会議員(旧盛岡藩士)佐藤昌蔵の娘が在学していた明治女学校に入学。
在校中、一番町(富士見町)教会に出席、聖書の講義や説教を聞き、明治・大正期のキリスト教の代表的指導者・植村正久から受洗する。
1893明治26年、明治女学校普通科を卒業、次いで高等文科に進む。
1895明治28年4月、卒業。その後、下田歌子らの大日本婦人教育会が設立した*女紅場で教壇に立つかたわら『女学雑誌』の事務、日本基督教婦人矯風会書記をつとめた。
*女紅場: にょこうば。裁縫、機織、手芸、染色のほか、英語も教えた。細民対象の初等教育機関として機能した。
1899明治32年6月、救世軍初の日本人士官・山室軍平と結婚。軍司令官の夫に賛同して、*救世軍に入隊する。
*救世軍: イギリスのウィリアム・ブース夫妻の貧民地区伝道に始まり、1878明治11年創設されたプロテスタントの一派。軍隊組織による庶民伝道と社会事業を目的とし欧米で発展。
救世軍が起こした廃娼運動で、機恵子は娼妓解放のための更生施設・東京婦人ホームを開設、その責任者となった。
1905明治38年、東北地方大飢饉による人買いの手から女子を守るため、救世軍が東北凶作地女子救護運動を起こし、機恵子は保護された女子のための責任者として就職を世話した。
1916大正5年7月12日、救世軍人としての激務の中で、結核療養所設立を企図したが、その募金中に倒れた。山室民子ら6人の子をもうけた。
夫の山室軍平は妻機恵子をたたえ愛おしみ、小伝『山室機恵子』を著した。
(『日本キリスト教歴史大事典』1988教文館/ 『山室機恵子』1916山室軍平)
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