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2015年3月 7日 (土)

霞と山桜、白河の関と勿来の関 (福島県)

 先日の「隅田川沿岸の産業史」がおもしろかったので、同じ龍澤潤先生の深川東京モダン館(東京江東区)「海辺橋の見た歴史」を聴きに門前仲町に行ってみた。地下鉄・門前仲町駅で降りたのは初めて、下町の深川が都心すぐそばを実感した。講義は仙台藩蔵屋敷のあった仙台堀川にかかる「海辺橋」を軸に、町の移り変わりについてだった。
 深川といえば木場としか浮かばなかったが、深川三十三間堂などがあった寺町で、狩野派の絵師がいたり、滝沢馬琴誕生の地、芭蕉庵清澄庭園など江戸の歴史が豊富だと知った。

 芭蕉庵は松尾芭蕉の弟子、海辺橋付近に別荘も持っていた魚問屋・杉山杉風が、生簀(いけす)番小屋を手直しして提供したものという。ところが江戸は火事が多く芭蕉も大火に遭い同じ深川で三度も住居が変わった。ところで、芭蕉と言えば俳諧紀行文「奥の細道」が思いおこされる。

 ―――心もとなき日かず重なるままに、白川の関にかかりて、旅心定まりぬ

 芭蕉と門人曽良が、古い歴史の名残をとどめる関跡にさしかかり、いよいよ東北だという気になった白河の関は奥羽三関の一つ。
 奈良時代、蝦夷対策のため勿来(なこそ)・念珠(ねず)関ととも奥羽の三代関門として設置されたが、平安後期以降は有名無実となり歌枕として知られる。能因法師の関歌は有名。

            都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関

 白河関: 下野国と陸奥国の境、東山道口にある。
 勿来関:(菊多関) 太平洋側。常陸国・陸奧国の境、東海道口にある。
 念珠関:(鼠ヶ関) 日本海側。北陸道口、越後国と出羽国の境。
 このうち福島県の白河の関と勿来の関について、『東北歴史紀行』(高橋富雄1990岩波ジュニア新書)他を参考にみてみる。

        白河の関

 白河関跡は1500年の名残をとどめ、市街地より南方10km、白河神社関の森、福島県白河市旗宿(はたじゅく)にある。

 ―――白河藩主・松平定信が関跡を推定し「古跡蹟」の碑をたてた。土塁・空壕(からほり)跡が残っており、発掘によって、柵列跡・住居跡も知られ、出土土器は、平安時代にさかのぼる国史跡。

 白河楽翁・松平定信の白河藩は十万石、奥州南の関門として重きをなしていた。その後、1823文政6年阿部正権が入封したが棚倉に左遷転封となり城をでた。それから間もなく戊辰戦争がはじまる。

            勿来の関

 山道の白河の関と成立が同じ5世紀前半ごろできたのが、海道の勿来の関(菊多の関)で関守はどちらも30人くらいいたらしい。こちらは源義家の歌と故事が有名。

    吹く風を勿来の関とおもへども 道もせに散る山桜かな

 ほかに琵琶歌に採り入れられたり、田山花袋の紀行文など文学的な作品は多い。しかし、この関は閉鎖され通行できなくる。常陸国と陸奥国の間の非常連絡が久慈川をさかのぼる白河経由の規程に改まったからである。福島県いわき市勿来町、浜通り最南端の九面丘陵にあったという勿来の関跡、今はいかめしい関の面影は見られないという。


        戊辰戦争激戦の地、白河口 

戊辰戦争当時、城主阿部家が転封となった白河城は留守城で城主がいなかった。白河城は奥羽同盟の一拠点となり、もっとも激戦の地となったの地となったのである。

 1868慶応4年4月江戸開城となったが奥羽では、西軍参謀・世良修蔵が白河城に留まっていた。これを仙台三春泉の兵が守っていたが、会津兵並びに仁義隊・藤代飛騨、渡邊綱之助以下130人が城を襲い、火を士民の家屋に放火した。これに、薩摩・長州・大垣兵が対戦し多くの死傷者がでた。戊辰戦争は先ず白河ではじまった。

 ――― 白河は西は勢至堂の険を経て若松に通じ、東は棚倉を過ぎて平に達し、北は須賀川、郡山、二本松、福島を経て仙台、米沢に通じ、南は宇都宮方面より進入する主要なる道路にして、奥羽南面の咽喉を扼する形勢を占め会津第一の関門なり
 であったから、白河は東軍にとっても西軍にとっても要衝の地であった。
 そのうち東軍は白河城を失い、これを取りもどすため繰り返し各方面から襲撃するも、各隊との連絡が不十分で撃破され、目的を果たせなかった。
 この白河口の戦いは、攻撃も防御も非常に激しく、4月から7月まで二本松落城の日まで3ヶ月にわたり戦い続けられた。この戦で戦死した人々の碑が近傍の市町村に建てられている。

 「仙台藩戦死碑」「福島藩戦死碑」「会津戊辰戦死十二士之墓」、西軍115名の墓には大碑「捐躬報国」 がある(『明治戊辰七十年を記念して』1938福島県女子師範学校)

 余談:
   西軍参謀・世良修蔵は長州藩士。幼児より学問を好み安井息軒について学んだ。長州奇兵隊の書記から、高杉晋作らの挙兵にあたり同志とともに第二奇兵隊をつくりその軍監となった。西軍参謀として、会津藩赦免の嘆願をはねつける強硬な態度をとったため、仙台藩士によって暗殺された。明治に従四位を贈られる。

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2022.8.22
   第104回全国高校野球選手権大会
   阪神甲子園球場の決勝戦、仙台育英(宮城)が下関国際(山口)に勝利した。ついに優勝旗が白川の関を越え東北にもたらされた。
   今の高校生みんな、野球に限らずコロナ禍で思うように部活動できなかったでしょう。そんな中でがんばった全国の高校生に拍手を送りたい。
2022.9.28
   ――― <開いた扉 続く学校に期待> ・・・・・ 東北勢は冬は降雪などで満足に練習できない。私も郷里の県立高で野球部のマネジャーだったが、室内練習場がなく、冬は筋力トレーニングが中心で実践感覚を取り戻せるのはグラウンドに積もった雪が溶ける春だった。・・・・・(中略)・・・・・ 「優勝旗を東北へ」は達成した。「次は我が県へ」という新たな夢が始まった。仙台育英の初優勝を励みに次代の球児が競い合い、東北の元高校野球部員として強く願っている。(2022.9.28「毎日新聞」オピニオン記者の目、下河辺果歩・大阪運動部)。

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