学費は台湾で、学資は無尽で、弁護士二人(宮城県)
深川の仙台堀、仙台藩蔵屋敷を知り、その水運を活用した実業家がいたかもしれないと探してみた。『中央之旧仙台藩人譚』(古山省吾編1917宮城県県揚会)に深川に「成沢倉庫」創設の成沢武之という実業家がでていた。
成沢武之は仙台藩士の次男、1864元治元年宮城県登米郡生まれ。国立七十七銀行に入ると、寝食を忘れて働き東京支店長に栄転。日露戦争が終わった翌年退職、実業界に入り地の利を得た深川に倉庫を創り、また成沢酒造場を起こすなど成功した。これだけだと「良かった」で終わりそう、他の人物を探してみた。
同『中央之旧仙台藩人譚』は実業家が多いが、軍人も目立つ。医師や弁護士はとくに苦学力行の人が多そう。仙台藩士の家も明治と世が変わると貧しかった。それを自らの努力で乗りこえた弁護士二人、平堀健助と尾崎利中を抜き出してみた。
ちなみに『中央之旧仙台藩人譚』のページを繰ると編集者の序文が胸に迫る。今から約50年も前だけど、昔事よそ事とは思えない。東日本大震災の被災地が緑の田園を見渡せるのはいつの日、被害地域の苦節が思い遣られる。
――― 白河以北一山百文の皮肉な嘲罵は素より今日のわれわれに加うる侮辱の語としては当たらない・・・・・・東北の振興、郷土の開発は勿論われわれ東北人の使命である
――― 東北開発や郷土振興や、それ等は土地の善悪ではない、物資の有無でない、金力でない、唯人である。人を中心とした努力に外ならない。
――― 都会は成功の地でない、田舎こそ猛志勇闘の青年に執っての活舞台である。栄達は人爵ばかりではない、鍬と鋤との先によって人として立派に衣食される自然に近い生活でなければならぬ。勝利の生活は・・・・・・豊熟せる田園を見渡した時ではないか。
平堀健助
1876明治9年、宮城県登米郡上沼村で生まれる。
郷里の学校で学び、卒業後は家事を手伝うかたわら村に勤めた。ある時、村の故老が、平堀を“微賤なる一小吏”とさげすんで無礼な陵辱を加えた。平堀は腹がたったが、
――― 蒼龍といえども井底にあればこそ魚族来たって其の前に戯れるのである。あに振るわざるべけんや。他日必ず驕奴に報ゆる所がなければならぬ」とわが身を叱咤し職を辞し徒手空拳、東京に出た。
1899明治32年、知人の推薦で台湾総督府に勤め、蕃地台湾に4年いた。その間、暮らしを切り詰めて学資を貯めつつ、日本大学の*校外生となって勉強した。
*校外生: 大学通信教育。明治10年代後半、法律を中心とする私立専門学校がはじめた。講義録を発行し主に法律に関する専門教育の機会を提供した。
1903明治36年10月、帰国して東京の明治大学に入学した。ところが、貴重な学資を養父に消費され、一時休学するはめになった。それでも何とか復学し「菜根を噛みつつ」困難に耐え、1906明治39年7月、明治大学を優等で卒業した。
卒業後、衆議院に就職、かたわら法学を研究し研鑽につとめた。戸水博士の手伝いをしたとあるが、戸水寛人ならば日露戦争の開戦を迫った七博士の一人である。
1912大正元年、晴れて弁護士試験に及第、弁護士事務所を開設。奮闘努力の甲斐あって、自分を侮辱した驕者を見返したのである。
1913大正2年5月、東京弁護士会常議員及び同会弁護士法改正法律案取調委員となる。
尾崎利中
1869明治2年、仙台市米ヶ袋の旧仙台藩大番頭・尾崎興利ときみ子の間に生まれる。
子どもの頃、片平町小学校に通うかたわら、漢学を岡濯について学ぶ。
のち、宮城中学校に入るも中退し宮城師範学校に入る。が、またも中退、再び宮城中学校に入学して卒業。
この小・中学時代の尾崎少年は、暇さえあれば庭や畑の草むしり、屋根の修繕までして家事を手伝った。東京に出て学問をしたかったが学費がなく上京できなかったのだ。そんなある日、母親が掛けていた*無尽の抽選があり尾崎が行った。すると百円という大金が入札できた。
*無尽: 室町時代にはじまり江戸期はもっとも盛んで明治期以降も庶民金融として行われていた。数人から数十人の仲間を募集して講をつくり、一定額を出し合い入札し、講中全員が落札すれば解散する。
母が無尽で得た百円を尾崎に遊学費として与えてくれたので、東京に出て*成立学舎で学ぶことができた。
*成立学舎: 神田駿河台鈴木町にあり大学予備門受験科・英語変則を修るを目的とす。
成立学舎の次ぎに中央大学に入学、1891明治24年卒業。次いで留学を望んだが病を得てやむなく帰郷、数年の間、療養につとめた。生活が苦しいなか尾崎の母は、息子のために精一杯の看病をした。後年、尾崎はに生活の余裕ができるとすぐ母を東京に呼びよせ晩年を安楽に送らせ孝行した。
1897明治30年、28歳で弁護士試験に合格。*高木益太郎の法律事務所に入り実地に研鑽を積んだ。
*高木益太郎: 衆議院議員弁護士・法律新聞社社長・尾西鉄道社長。歳費を公共と慈善に。浅草の貧民施薬に千円寄付するなどしている。
1899明治32年5月、独立して弁護士事務所を日本橋区鉄砲町に開設。尾崎は克己の模範となるべき人と称され、弁護士としては殆ど民事の専門であった。
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