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2015年3月28日 (土)

大熊町の幕末明治、中村藩領大野村・熊町村 (福島県)

 時々いただくコメントは励みになる。まして採りあげた人物の子孫から「先祖のことが分かった」は嬉しい。そのコメントに興味をひかれた人のコメントもまた嬉しい。
 それにしても故郷を遠く離れても先祖を偲べるけど、突然の災難で故郷を去ったら、先祖どころではないかも知れない。それとも心の支えになっているだろうか。
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 東日本大震災に加えて原発事故で学校ごと会津若松に避難した大熊町の皆さん、どんな思いで故郷を想っているだろう。大人は先祖伝来のことを子どもたちに、どう伝えていくのだろう。三月は震災関連ニュースが多く新聞やテレビで、大熊の子どもたちの健気な笑顔を見かける。ほっとしたり、胸がいっぱいになったり。そこで今日は大熊町の近い昔、幕末明治をみてみる。


  写真は大熊町マスコットキャラクター
 “ おおちゃん興き上がり小法師 ”
 
 
大熊町は、震災当初の混乱期に多くの町民を受け入れてくれた会津地方や、これまで町を支援してくれた方々への感謝と共に、町の復興に向けた思いを伝えるため、「震災から必ず立ち上がる」という気持ちを込めて、「おおちゃん興()き上がり小法師」を作成。
笑顔の「おおちゃん小法師」が持っているのは、特産品の梨と熊川に遡上する鮭。

 会津若松に移転した学校、大野小学校・熊町小学校・大熊中学校。大野村と熊町村とが合併して大熊町になった。
     『福島県町村沿革便覧』(1894遊佐勝司編)
  大熊町:明治維新前は中村藩領
    1880明治13年  熊村・狭山村 → 熊村  ―――→ 熊町村(明治22年)
                熊川村・夫澤村・小良浜村・小入野村  →  熊町村(同22)

           ***  ***

     『磐城七郡名家揃』(1895 広木孝三)

  <熊町村> 標葉(しねは)郡、1893明治26年度

 現在戸数386戸、人口2620人(男1335 女1285)、村会議員12人、県会議員選挙資格者176人、衆議院議員選挙資格者18人、村内地租金高2500円余、役場位置・大字、巡査駐在所・大字熊、尋常小学校二カ所・大字/大字夫澤、生徒人員216人(男179 女37) 
  阿部英信: 1844弘化元年正月生れ、旧中村藩士。維新後、村吏となり大字夫澤に勤務中、田地に水害ある事を憂い堤防築いてその害を除き、能く人を憐れむ。人民その徳を称え石田長太郎氏を発起として夫澤の路傍に報徳碑を建設。

  <大野村> 標葉郡、1893明治26年度

 現在戸数259戸、人口1412人(男727 女685)、村会議員8人、県会議員選挙資格者113人、衆議院議員選挙資格者14人、村役場位置・大字野上、尋常小学校位置・野上、生徒人員145人(男108 女37)、巡査駐在所・大字野上字山神
  大野村は蚕糸農業に熱心勉励地にて盛大の状なり。
  石田茂宗: 1833天保4年4月生れ。士族農・村長。
  石田彦太郎: 1847弘化4年2月生れ。蚕業。大日本赤十字正社員。

          ***  ***

      『三百藩戊辰戦争事典』(2000新人物往来社)上巻より

     <中村藩

 外様・関ヶ原の戦後、徳川氏に服属した大名
 居城・福島県相馬市
 領地・陸奥国宇多郡中村
 石高・6万石
 席次・帝鑑間詰(江戸城中における大名の詰所)
 戊辰開戦時の藩主・相馬誠胤(ともたね)

 中村藩は鳥羽伏見戦争の後、家老を上洛させて恭順の志を伝え、仙台藩へも使者を遣わし朝廷への周旋のことを願い出ていた。しかし、1868慶応4年、奥羽列藩同盟が結ばれ西軍(新政府軍)が目の前に攻めてきたら、同盟軍とともに防衛しなければならない。
 西軍の参謀・板垣退助は棚倉を落として平潟口の友軍と合流する作戦をたて、合戸村で同盟軍の会津・仙台・棚倉そして中村兵と激突した。同盟軍は多くの死傷者を出して敗退、中村藩兵は笹川(郡山市)へ敗走した。
 同盟軍の戦況はますます悪化、三春藩が同盟から離脱し、続いて二本松も落城、平潟西軍は中村に攻めてきた。浪江(中村藩領地)の前線にとどまるのは中村藩兵だけになった。西軍はじわりじわりと北上して、中村藩砲台が狙われ、不意打ちを食らって中村藩兵はさんざんな敗北で死者12名をだした。仙台兵も米沢兵も帰途についていて、中村藩兵だけが置き去りにされてしまった。
 中村藩は城を枕に討死するか、降伏するか、二者択一を迫られ、情勢を分析し降伏に踏み切った。
 西軍総督は相馬中村へ入城し、藩主父子は菩提寺の長松寺で謹慎を命ぜられ、中村藩兵は西軍の先導をつとめて仙台藩境へ出撃した。
 中村藩兵は奥羽同盟軍として88名もの戦死者をだしたが、そればかりでなく降伏した後、西軍側についた中村藩は8月に入ってから59名の戦死者を出している。
 自藩の犠牲を少なくするための降伏だったにもかかわらず、59名の戦死者は多すぎる。また、戦死者が給人、用人、農兵、郷士が圧倒的に多かったことも悲劇である(青木更吉)。
   参考 
  給人(きゅうにん):知行地を与えられた家臣。
  郷士:城下町に住む家中武士に対し、郷村在住武士の総称。土佐藩の一両具足などは有名。

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