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2015年4月11日 (土)

札幌遠友夜学校 (新渡戸稲造) と 有島武郎 (北海道)

 春四月は入学式の季節だけど、中学校で卒業生を心配する先生がいる。高校全入の時代というが経済的に入学が困難な生徒がいるのだ。十代後半の一番良い時に高校へ通えないなんて辛すぎる。公立高校が無理で私立に入学したくても授業料が高くて行けない。優等生でないと奨学金は得られないのだろうか。
 今、貧富の格差が拡大していると言われるが、こういう話を聞くと本当のようで考えさせられる。そんな折しも、<“札幌遠友夜学校のビラ”(2015.4.6毎日新聞夕刊、牧太郎のコラム・大きな声では言えないが・・・)>を読み、今もあるといいのにと思った。

 授業料無料、明治期に男女共学、昭和の戦時中に閉校するまで約5000人も学んだ夜学校があったという。生徒募集のビラに書かれた言葉がすばらしい。
  ――― 世界で一つの学校。これ程どんな人でも、入れる学校はありません。働きながら勉強できます。幾ら年をとっていても差支へありません。男でも女でも構いません。いつでも入れます。月謝は要りません。学用品はあげます。先生は、諸君の友達です。

 貧しさから教育を受けられない若者たちのために新渡戸稲造は、札幌市豊平橋付近に札幌遠友夜学校を開設した。
 新渡戸稲造は、1862文久2年盛岡藩(岩手県)勘定奉行の家に生まれた。札幌農学校(現北海道大学農学部)に入学し、在学中キリスト教に入信。卒業後、アメリカ・ドイツに留学。農業、経済を学んで帰国、1891明治24年教授として母校に戻った。そのとき、「友あり遠方より来たる、また楽しからずや」から名付けた札幌遠友夜学校を開設。
 その後、台湾総督府技師・京大教授・一高校長・東大教授・東京女子大初代学長。国際連盟事務局次長・太平洋調査会問題調査会理事長などを歴任。日本文化の伝統と世界的視野をあわせた明治自由人であり、国際人であった。

 『有島武郎全集』第1巻のはじめは♪遠友夜学校校歌。有島武郎は札幌農学校に進学、はじめ新渡戸稲造の家に寄寓した。在学中、遠友夜学校で貧しい子女の教育に携わり、遠友夜学校の代表者としても活動、学内外に清新の気を吹き入れた。略伝後述。

     札幌遠友夜学校校
   一
澤なすこの世の楽しみの 楽しき極みは何なるぞ
北斗を支ふる富を得て 黄金を数えん其時か
オー 否 否 否  楽しき極みはなほあらん。
   二
剣はきためき弾はとび かばねは山なし血は流る
戦のちまたのいさほしを 我身にあつめし其時か
オー 否 否 否  楽しき極みはなほあらん。
   三
黄金をちりばめ玉をしく 高どのうてなまばゆきに
のぼりて貴き位やま 世にうらやまれん其時か
オー 否 否 否  楽しき極みはなほあらん。
                     (4.5.6.7略)
   八    
そしらばそしれつづれせし 衣をきるともゆがみせし
家にすむとも心根の 天にも地にも恥ぢざれば
ア- 是れ 是れ 是れ 是れこそ楽しき極みなれ。
   九
衣もやがて破るべし ゑひぬる程もつかの間よ
朽ちせでやまじ家倉も 唯我心かはらめや
ア- 是れ 是れ 是れ 是れこそ楽しき極みなれ。

        遠友夜学校のあゆみ             

 新渡戸稲造(岩手県)夫人、萬里子(メリー・P・エルキントン)のアメリカの実家から届いた1000ドルの遺産を用いて稲造の夢である夜間学校を開設。
 1894明治27年、札幌遠友夜学校を開設、北大生が先生となって教える
 1904明治37年、(写真:遠友夜学校第6回卒業記念、教師と生徒たち)

Photo_2
 1909明治42年、 有島武郎代表就任~1914大正3年まで
 1916大正5年、 北海道庁より私立学校認可
 1929昭和4年、 新校舎完成
 1933昭和8年、 新渡戸稲造校長、カナダで開かれた太平洋会議に出席の帰途病没。
 1934昭和9年、 新渡戸萬里子(メリー)校長就任~1938昭和13年まで
 1943昭和18年6月、 創立50周年記念式典挙行
 1944昭和19年3月 閉校。「軍事教練をしない学校は必要ない」という時の政府の「教育の統一的推進」政策が、この学校を閉校に追い詰めたとの話もある。

       有島武郎
 1878明治11年3月、東京小石川水道町で生れる。学習院を経て1901明治34年札幌農学校卒業後、渡米してハーバード、フォード両大学に留学3年、ヨーロッパを回って帰国。
 1908明治41年から1914大正3年まで札幌農科大学予科教授、その後、京都同志社大学講師を担任。作家として文壇に名を博したのは37、8歳頃からで早くない。純情の紳士で、思想家としても非常に先覚的なところがあったが、夫人と死別後、婦人公論記者・波多野夫人あき子と恋におち、1923大正12年軽井沢の別荘で情死を遂げた(『近世自殺者列伝』1931宮武外骨)。

 母校の教職にある間、ホイットマン、ツルゲーネフ、トルストイなどに傾倒、社会主義に関心を持つ。 「白樺」創刊に加わり、リアリズムの作風により文壇的地位を確立した。
 社会主義者たちと交流、労働者階級の発展にブルジョア出身の知識人は寄与しえないとし、父の創設した北海道狩太の有島農場を小作人に開放した。しかし、こうした真摯な努力にもかかわらず、自らの思想を積極的なものに転化できず、最後は情死する。代表作は『カインの末裔』『或る女』ほか『有島武郎全集』14巻(『現代日本文学大事典』1966明治書院)。

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