渦中に飛びこむ明治の壮士 氏家直国 (宮城県)
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航した翌、1854安政元年3月、日米和親条約が締結され下田・箱館2港が開港、これより次々と欧米各国と条約が結ばれる。長く続いた鎖国日本がこじ開けられた年、奥州仙台藩大番士・氏家直幸家に三男、直国が生まれた。
氏家直国は三兄弟の末弟ながら胆力があり腕力も強かった。9歳で早くも剣客・桜田敬介の門に入り、撃剣を学びなかなかの腕前に成長した。
当時の仙台藩のできごとをみると、藩校・養賢堂で洋式大砲鋳造、幕府より蝦夷地警備を命ぜられる、アメリカ船が石巻に入港、寒風沢造船所(塩釜市)で洋式軍艦・開成丸進水、幕府が東蝦夷地の一部とクナシリ・エトロフを仙台藩の領地とするなどがあげられる。こうした波乱の時代に生まれた男子の行く末、面白そう。ちょっと見てみよう。
1854安政元年9月、生れる。母は小野氏。
1868明治元年、仙台藩を盟主とする奥羽越列藩同盟を結成し、新政府軍と戦うも降伏。62万石の仙台藩は28万石に減封された。
1869明治2年、15歳。藩兵が編成され直国は砲術を修業。
1871明治4年、廃藩置県により仙台県設置(翌5年、宮城県と改称される)。また、仙台に東北鎮台が設置された(軍団、軍政機関、東京ほか6鎮台を設置)。
1874明治7年、父の直幸が死去。直国は文武ともに大切と考え藩校に入って学ぶ。これより以前から住居を志田郡古川の寒村に移し耕作していたが、交友すくなくやるかたない思いで過ごしていた。そこで、近隣の農夫を集めて古今東西の歴史、政治の得失、人物の忠奸など語り気を紛らわせた。
1876明治9年、22歳。陸軍 *教導団生徒募集に応じ、上京。
*教導団: 明治初期の陸軍の下士官養成機関。
1877明治10年、大阪に差遣される。ときに西南戦争が起こり九州に赴くも、旅団に属してなく戦地で戦うことができなかった。当時、熊本城は西郷軍に取り囲まれ、両軍相対して砲丸轟き、剣閃くの情況だった。
前線で戦いに加わりたい直国は、軍を脱走して山坂30里余りを一昼夜走りとおした。ところが、激戦地・人吉に到着したところで捕縛された。たまたま薩摩人の名を記したものを持っていたので、薩摩に通じているとの嫌疑で熊本の臨時裁判所で糾問されたのである。しかし、疑いは晴れ、直に放免された。
西南戦争には会津人など戊辰戦争で敗れた側が政府軍に入り戦った者が多く、戊辰の仇とばかりに攻め強かった。
1883明治16年、任期満ちて軍を出るまでの間、近衛伍長・軍曹に任ぜられた。
軍をやめた後、自由党急進派の指導者大井憲太郎と交わり自由民権論を唱えた。
1884明治17年10月、大井憲太郎の使いで *秩父困民党の蜂起鎮撫を試みるが失敗。かえって蜂起の人々を激励したとも伝えられる。
*秩父困民党: 秩父事件。埼玉県秩父地方の養蚕・製糸農民らが自由党員らと借金党・困民党を結成。借金の年賦返済、地方税の減免を要求、約1万人が蜂起。軍隊に鎮圧、処断された秩父騒動。
同年12月、朝鮮で *甲申事変が起きると郷里に帰り義勇軍を組織、1500人を集めたが、事がおさまり出番がなかった。
*甲申事変: 朝鮮ソウルで金玉均・朴永孝らが起こしたクーデター事件。
この事変後、大井憲太郎らが朝鮮での親日政権の樹立と日本国内の改革を企図したが、朝鮮渡航直前、大阪で逮捕された。国事犯大井・影山(福田英子)らは外患罪などで下獄、大阪事件である。
1885明治18年10月、直国は、大阪事件の資金調達のため落合寅市らと奈良県信貴山の千手院を襲うも果たさず、重禁錮2年罰金30円の判決を受けたが、明治憲法発布のさい、大赦で放免された。裁判の法廷では、有司専制批判・責任内閣論や清国侵略論を展開した。
徳島監獄出獄後は一時、力士・新世界泰平となるが、1890明治23年11月国会開設後は日本正義会を結成するなど壮士として活動した。
1891明治24年、保安条例を適用される。反政府運動の取締りを目的として制定、皇居外3里の地に追放された。
1900明治33年、*北清事変に際し中国に渡る。
*北清事変: 中国義和団の反乱事件に対し、8カ国連合軍よる鎮圧戦争。日本公使館書記生が殺害される。北京包囲戦に日本は連合軍最大の軍隊を派遣。この時の会津人・柴五郎の活躍が知られる。
1902明治35年7月7日、天津にて腸チフスで死去。49歳。
氏家直国没後の刊行『断食絶食実権譚』河村北溟1902大学館/[氏家直国(新世界泰平)絶食にて東京仙台間を三昼夜にて往復]よると、
直国は、食い溜めして昼夜兼行で休まず、間断なく歩き続けたという。更に、
―――直国は六尺豊かな大男で、新世界泰平と称したが、中途にして止してしまった。早くから相撲界に入っていたら、当時の常陸山のように成功したであろうに、惜しいかな政治界に未練を残して、ツマラヌ死にようをしてしまった。さもなければ死んでも社会にヤンヤといわれたろうに、実に惜しきことをしてしまった。
参考: 『大阪事件志士列伝』宮崎夢柳1887小塚義太郎 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂
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