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2015年4月25日 (土)

人物評の名手、鳥谷部春汀 (陸奥国三戸郡・青森県)


  日本の本島を縦に両分する山脈あり。その頭は、陸奧にありて陸奧を東西にわかち、やや下りて羽前羽後(山形・秋田県)と陸中陸前(岩手・宮城県)とをわかち、その腹にいたりて、北陸道と東海道とをわかち、その尾は、山陰道と山陽道とをわかつ。この長き山脈の頭部に、一大山湖あり。十和田湖と称す。凡そ三里四方、我が国の山湖にては、最も偉大なるもの也。この偉大なる山湖を夾んで、二文豪生まれたり。東なるを鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)となし、西なるを内藤湖南(ないとうこなん)となす。
 春汀は五戸(ごのへ)の産にして湖南は毛馬内(けまない)の産也。五戸は、国は陸奧に属し、県は青森に属す。毛馬内は、国は陸中に属し、県は秋田に属す。されど、いづれも、もとの南部藩のうち也。南部氏は、甲斐源氏の一族なるが、甲斐の南部郷を領せしより、南部を氏とせり。源頼朝、奥羽を平定するに及び、南部氏は、封ぜられて、陸奧全体と陸中の一半とを領せり。
 奥羽は、古来、敗北の歴史のみを有する地也。古くは日本武尊に征服せられ、終に源頼朝にいたりて、全く制服しつくされたり。爾来、戦国の際にも伸ぶる能わず。下りて、維新の際にも、敗北の歴史をとどめたり。然るに、近年にいたりては、政治方面には、原(敬)、後藤(新平)、斉藤(実)、平田(東助)の四大臣を出せり。文学の方面には、陸羯南、国分青崖、落合直文、内藤湖南、小杉天外、後藤宙外、土井晩翠を出せり。春汀も其一人也 (『行雲流水』〔鳥谷部春汀を弔ふ〕 大町桂月)。

        ○ ( )は筆者、四大臣が姓だけなのは当時の常識だからなのか。

 長い引用、大町桂月は、けれんみのない文章でしかも短いのに「陸奧の歴史から位置まで表現しててすごい」と思って。ちなみに、内藤湖南は、明治~昭和期の東洋学者。
 ところで筆者は、大町桂月にはあまりいい印象をもっていない。「君死にたもう事なかれ」と詠った与謝野晶子を非国民と非難したから。もっとも、桂月は東洋的男性的で、おばさんが何を言おうと眼中にないだろう。
 その大町桂月が、その死を惜しみ弔った鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)は明治時代のジャーナリストである。
 写真は『春汀全集:明治人物月旦-政治家』(1909博文館)目次の一部。クリックすると文字が読める。
Photo

        鳥谷部 春汀 

 1865慶応元年3月3日、 陸奥国三戸郡五戸村(青森県)で生まれる。名は銑太郎。代々の南部藩士・木村忠治の家に生まれ、鳥谷部家に入る。
 1876明治9年、明治天皇奥羽巡幸のさい有栖川宮が五戸小学校に臨席、優等生の銑太郎は歴史の一節を講じた。12歳で卒業し小学校助教となり、15歳で選抜され青森県専門学校農芸科に入る。18歳の時、上京して同藩の先輩、東太郎を頼るも東は清国にいって留守、自分も清国行きを望むが叶わなかった。そのまま東京で慶應義塾生の野田正太郎らと同宿、辛酸をなめ苦学力行していたが脚気になってしまった。泣く泣く帰郷して療養し、脚気が癒えると、五戸小学校で3年間教鞭をとった。

 1889明治22年、24歳で再び上京、早稲田専門学校(早稲田大学)に入る。
 1891明治24年卒業。帰郷し、時々地方の政治運動に加わる。夏、*島田三郎が東北遊説で隣県の岩手県に来、島田に春汀を推薦する者があったが、その時は会いに行けなかった。   *島田三郎: 江戸生まれ、ジャーナリスト・政治家。昌平黌で漢学を修め沼津兵学校大学南校、英語学校卒業後、『横浜毎日新聞』創刊。主筆として民権論を鼓吹し官界に転じるも、1881明治14年の政変大隈重信らと下野、立憲改進党の結成に参画し、自由民権運動を指導。

 1892明治25年、上京した春汀は、島田を訪ね毎日新聞入社、編集に従事する。当時、島田は選挙大干渉事件など政界騒然の折から東奔西走、社説を書く暇がなくて、春汀にその意、思うところを告げて筆をとらせた。
 1893明治26年、旧南部藩藩医・松尾玄晁の娘、こと子と結婚。 
 1894明治27年夏、毎日新聞退社。
 1895明治28年、*近衛篤麿の機関雑誌『精神』を任され、誌上初めて人物月旦(人物評)を試みた。「精神」はのち『明治評論』と改題される。
   *近衛篤麿: 明治時代の政治家、公爵、貴族院議員。オーストリア・ドイツに留学。藩閥勢力に批判的で、大津事件や選挙大干渉事件では第一次松方内閣を批判した。

 1897明治30年、博文館に招かれて雑誌『太陽』に人物評を執筆。調査の行き届いた材料を基本に、情理を兼ね備えた論法を平易に著した人物評は好評を博した。
 ――― 春汀の人物月旦は、必ずしも人物を主とせず、人物を捉えて、時勢を論ずる也。愛憎の念なく、観察周到にして、判断公平なり・・・・・・その胸中、ただ治国平天下の念あるのみ也。しかも権勢の上に超脱し、毫も私情を加えず(桂月)。

 1899明治32年11月、招かれて、報知新聞主筆。
 1902明治35年8月、再び博文館に入り、以来『太陽』を主宰する。この間、青森県在京学生の寄宿寮・修養社を起こすにあたり力を尽くした。
 1908明治41年夏、大町桂月らと十和田湖を訪れる。桂月の紀行文「十和田湖」あり。
 同年11月、悪性の赤痢にかかる。12月22日死去。墓は東京本郷駒込の吉祥寺。
   著書: 『通俗政治汎論』 『明治人物評論』 『春汀文集』など多数。

 ―――十和田湖に同行して半年たたぬうちに、春汀早く世を去らむとは。思へば、春汀の尺八を聴きたるは、聴き納めにして、春汀の帰省したるは、故郷の見納めなりき。齢わずかに四十四、言論、政治界に重きを為し、前途有望なる身を以て、忽然として白玉楼中の人となれり。惜しいかな(桂月)。

  参考: 『東奥人名録・改元記念』安西銍次郎・成田彦一編1913青森交詢社/ 『コンサイス日本人名辞典』三省堂 

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