安積疎水と阿部茂兵衛(福島県郡山)
五月の連休まえ、駅に福島県の観光パンフレットが並んでいた。ページをくると、美しい風景、花とりどり、特産品、美味しそうな名物が目に楽しい。福島県地図に隣接する県、茨城・栃木・群馬・新潟・山形・宮城の6県名が載っている。
遠方の県や市を見るとき、そこを真ん中にして周辺を見る発想がなかった。視点が変われば見えてくるものがありそうだ。地図が読めない女だけどもっと地図を見るとしよう。
福島県エリアマップの県中エリアにある郡山は江戸時代まで、人口5000人ほどの奥州街道の一宿場だった。ところが、明治時代に国の直轄事業として行われた安積疎水(あさかそすい)の開削、原野の開拓をきっかけに大発展を遂げる。
安積疎水は、猪苗代湖から会津若松に流れる反対側の東部の安積郡にひかれた用水路。士族授産、開墾を目的に着手された。
明治政府は士族授産の制度を設け、開墾地殖民事業により国力の充実を図ることにした。
福島県令(知事)安場保和は、安積郡は原野が多く水利が乏しいのを見、調査させたところ開墾適地と報告があり、典侍(県役人)中条政恒に担当を命じた。中条は、まず郡山・小原田・大槻三カ村の一部を開拓することにした。
1873明治6年、開拓希望者を募ったが、応募者の多くが無資産または無頼の徒ばかり、みな資格がなかった。そこで中条は、阿部茂兵衛が資産もあり気骨もあると知って、自ら出向いて茂兵衛を説いた。
阿部茂兵衛(はじめ虎吉)は、1827文政10年、安積郡郡山町の商家・小野屋に生まれた。小野屋は古くからの呉服商で、二本松藩から苗字帯刀を許されたほどの家柄である。家訓は「商人は商売以外に手を出すな」であった。
戊辰戦争の時、茂兵衛の小野屋は、家屋を焼かれ資産を失って苦境に立たされた。しかしその後、生糸を海外に輸出し大きな利益を上げて家運を盛りかえした。そして順調に商売している折しも、資産と人望を見込まれ開拓に応じるよう頼まれたのである。中条から話を聞いた茂兵衛は家訓に背いて応じたばかりか、私益を忘れて尽くすことになる。
茂兵衛は有志の間を奔走して商人24人の同志を得、開成社を組織し社長となった。
開拓事務所「開成社」は荒野を開拓して桑園を作り水田を開墾して数年後には集落を造成しこれを桑野村と名付けた。開墾地300余町歩、現在の開成山一帯である。
ちなみに、郡山市開成館は近代史を語る史料館としてのこされ、見学できる。
1876明治9年、明治天皇東北巡幸の先発として内務卿・大久保利通が福島県を訪れた。このとき、中条政恒は熱心に安積疎水の開削を訴えた。
1878明治11年、御用係・奈良原繁、内務省土木局のオランダ人技師ファン・ドールンが実地調査して疎水開削が決定した。
1879明治12年12月5日
、起工。この工事は猪苗代湖の湖西にある戸ノ口に水門を設けて、水量を調節し、湖東に新しい水門を設けて安積原野に湖水を流下させようというものであった。工事は多くの隧道・樋・堀割による幹線約50kmで、3年の歳月と公費40万円を費やし、1882明治15年8月、完成、旧藩士たちが全国から入植し、開墾に従事した。
同年10月1日、開成山大神宮で、政府から岩倉具視左大臣はじめ顕官50人、地元から阿部茂兵衛ら多数の関係者が出席して完成式が行われた。
阿部茂兵衛の働きは開成山だけにとどまらず、安積野全域に広まり、さらに、安積疎水の完成に尽くした。また、神社の改築、諸役所・警察などの建設にさいして多額の寄付を行うなど公共事業に力を尽くした。そのほか、福島県庁の誘致運動では身銭をきって活動した。茂兵衛はこのように利害抜きに開拓に没入し、家産を傾け小野屋のノレンを下ろすハメになった。そして、ノレンを下ろして間もなく亡くなる。
1885明治18年、59歳の一生を終えた。
茂兵衛の没後、その徳を偲び称え、男爵・奈良原繁、前安積郡長・田中章により碑を開成山に建てられた。碑文は品川子爵。
安積疎水は農業用水として大きく役だつばかりでなく、郡山市民の飲料水、さらには工業の発展にも役だったのである。安積疎水の豊富な水量を利用した発電所が次々とつくられ、郡山が工業都市として発展する動機となった。
明治・大正・昭和の各時代を通じて、郡山に広い分野の工場・事業所が進出した。明治のはじめ5500人だった人口が約30万人にもふくれあがるなど発展。安積疎水は郡山発展の基盤となったのである。ちなみに安積疎水関連の施設など、近代化産業遺産群に指定されている。
参考:『明治時代史大辞典』2011吉川弘文館 / 『福島県善行録』1912福島県教育会編
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