東北三陸の地域総合開発を説いた熱誠の人、小田為綱(岩手県)
小田為綱憲法構想(「激動の明治国家建設特別展」衆議院憲政記念館図録より)
1839天保10年9月、陸奥国盛岡藩野田通宇部村24番(久慈市)に生まれる。父は代々の盛岡藩士・小田長十郎、母はるい子。幼名は仙弥。
1853嘉永6年、盛岡に出て武技を長嶺将盈に、文学を板垣正純に学ぶ。
1859安政6年7月、江戸の芳野金陵に経史文章を学ぶ。
1861文久元年、22歳。「時務策十篇」著し藩侯に上せ、勤皇の大義を明らかにした。
1862文久2年正月、藩侯の侍講、かたわら昌平黌で学ぶ。
1863文久3年3月、盛岡に帰る。
1868明治元年12月、藩主南部利剛、全領没収のうえ謹慎引退を命ぜられ、名跡は嫡子彦太郎が継ぎ、さらに白石に13万石与えられた。小田はこれを歎き同志と共に東京に出て、復帰を哀願する書を要路に呈し日夜奔走したが、忌避に触れて潜伏する。
1869明治2年、南部利恭は復帰を許され盛岡藩知事となる。
1870明治3年4月10日、31歳。藩校作人館が再開され、小田は藩学校舎長として迎えられ、原敬や佐藤昌介ら後進の指導にあたった。6月、藩議員を兼任し版籍奉還を議決、7月、盛岡藩が廃され盛岡県となる。8月、国史編纂に資するため南部候の旧記抜粋を命ぜられる。
1871明治4年10月、辞職。
1872明治5年、「三陸開拓上言書」北奥羽開拓の意見書を執筆して上京。
1873明治6年、左院議長・伊丹重賢の了解をとり陸羽開拓書7巻を左院に提出した。しかし、議官・丸岡莞爾、馬屋原彰などの違言(異なる意見)あり激論するも、けっきょく顧みられず帰国。子弟を薫陶することにした。
1877明治10年、38歳。西南戦争に呼応して青森・秋田など東北地方での士族挙兵の計画に参画するも他の参加者らとともに未然に検挙された(真田太古事件事件)。
真田太古は鹿角来満神社の神職で、西郷隆盛に呼応して反政府の旗挙げを計画するも発見され、小田はその檄文を草した廉で捕らえられたのである。
1878明治11年7月、弘前裁判所において禁錮354日に処せられ青森で下獄。
1879明治12年9月、帰郷。
1880明治13年7月~14年10月ごろ元老院の「日本国憲法」草案を章ごとに書写し、これに評論を加えた「憲法草稿評林」をまとめた。憲法草稿評林は、君主有責論にたって天皇の廃位・廃帝の民権論的な*私擬憲法として注目される。
*私擬憲法: 明治憲法制定過程に政府内外から出された憲法私案の総称。民権派によるものが多く、交詢社の「私擬憲法案」、立志社の「日本憲法見込案」、植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」、千葉卓三郎の「五日市憲法草案」などが知られる。
1887明治20年7月、48歳。東京に赴き三条実美に、陸羽北海――東北地方・陸奧と出羽、ばくぜんと日本列島北方の海域をさす――の形勢をのべ、「東京にいる旧諸侯を旧地に帰さしめ地方開発に尽くすべき、また仙台に大学を設置し大いに東北六県の俊秀を養成する」など主張したが、何れも行われなかった。
1889明治22年、「陸羽開拓書」執筆
1890明治23年、家に帰り、農牧の傍ら筆硯を友として過ごす。
1894明治27年、「天語管窺」を著す。
1898明治31年3月、59歳。第5回総選挙(衆議院議員臨時選挙)に岩手県第二区から出馬して当選、8月、再度の臨時総選挙(第6回)にも当選。進歩党に所属。
同年6月、自由・進歩両党合同、憲政党結成(隈板内閣成立-初の政党内閣成立)。
「上大臣諸公閣下下書」を執筆、東北三陸の地域総合開発を説いた。
1901明治34年4月5日、62歳。衆議院議員生活わずか3年、任期中に病み東京で死去。
参考: 『岩手県国会議員列伝』村上繁次郞1889哲進堂/ 『興亜の礎石』1944大政翼賛会岩手県支部/ 『衆議院議員列伝』1901衆議院議員列伝発行所/ 『大南部野田領誌.正編』1924千鳥倶楽部
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