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2015年5月16日 (土)

生計の困難にして不安、更にこれに劣らぬ苦痛は侮辱、 鈴木文治 (宮城県)

 「今日労働者として最も苦痛に耐えざるは、その生計の困難にして且つ不安なること、更にこれに劣らぬ苦痛は、・・・・・・労働者に対する一般社会の侮辱である」
 と語ったのは、大正初頭、友愛会の創設にあたった鈴木文治

 戦後70年にあたる今年、なんとなく戦前の空気が漂うという人が少なくない。そうかも知れないと不安にかられる。そのせいか、父母から聞いた、空襲を逃れようと東京から千葉や埼玉に引っ越した、父は幼い私をすぐ背負って逃げられるようにいつも兵児帯を腰に巻いていた、戦中戦後の苦労話が思い出される。近代史年表を見れば、戦争がたびたびあり、そのあげく敗戦。しかし、その後の70年間の平和はすごい、立派なことだと思う。どうか、このまま戦争をしないですむ世が続いて欲しい。

 ところで戦争となれば兵隊にとられるのは、いつだって青壮年の働き手である。その働く場、労働環境が戦前は劣悪だったよう。明治維新後、社会の変動で農民が都市に大量に流れ込み、工場労働者がふえ、その下層部分はスラムに定着。残業をし妻の内職収入がなければ一家の生活は苦しかった。その労働者を下層社会の成員とみなす社会的蔑視の風潮も少なくなかった。冒頭の一節はそれを表現している。それを言った鈴木文治は、どのような人物なのだろう。鈴木本人の著書『労働運動二十年』に吉野作造が寄せた序文でみてみよう。
 ちなみに、吉野作造は前にとりあげたことがあるが、宮城県出身で東大教授。民本主義を提唱し、大正デモクラシーの理論的基礎を提供した。明治文化研究会設立した人物として知る人も多いだろう。

          鈴木文治
                      1885明治18~1946昭和21年
Photo_2

(『労働運動二十年』序文・吉野作造――鈴木文治君の素描――)

 鈴木君を私(吉野作造)が知ったのは日清戦争後間もないころである。
同君は隣郡の造り酒屋の息子だ。新設された中学校に入り、私の友達の小学校教師に預けられたので知り合いになった・・・・・・今は体重30貫あるという。たしか中学1年の時は、色白の丸ぽちゃの人形のような美少年であった。
 鈴木君の実家は、そのころから段々不如意になっていたらしいが、中学卒業のころまでは家運の傾けるを知らずに過ごしたようだ。両親は金に飽かして彼を育て、何一つ不自由のない甘やかされた生活で・・・・・・金持ちの坊ちゃんにありがちの罪のないナンセンスを連発しては人を笑わせていた。

 中学卒業の前後、実家は一家離散、鈴木君は高等学校へ入ったが、学資は一文もなくできれば両親兄弟の面倒までを見ねばならぬ窮状に陥った。これより彼の艱難時代が始まる。高等学校から大学を卒業するまでの前後7年、その間自分の学資を作るばかりでない、時には幾分両親の家政までを助けねばならなかったのだから・・・・・・しかし、あれほどの貧窮に落ちても、遂に本当の貧乏の経験をする機会を掴み損なったのではなかったかと思う。その故は、彼が異常の窮境に陥ったと聞くや、友人の誰彼は直に彼を救うべく・・・・・・

 鈴木君に相当の財産ができたという噂があるとやら。労働運動の大将で金のできるはずのないことはいうまでもない。金など作れる柄ではない。昔あれだけ貧乏したのだから、もう少し倹約してもよかりそうと私共は思うが、金があると何か他愛のないものを買って喜んでいる。そうでもないと後輩をたくさん集めて大盤振る舞いをやる。好意をよせる部下からは金持ちとみられ、素質を知らぬ他人から贅沢と疑われるゆえんである。
 右の如きは労働運動の先端に立つ闘士として、残念ながら重大なる欠点と観ねばならぬことは勿論だ。毀誉褒貶を尻目にかけて多難な労働運動を指導してきたが、時勢の進みは早い。今後も従来の運動を継続するには、彼に新たな修養がいる・・・・・・ここに自らを反省して転身の決心(総同盟会長辞退)を定めたのは時の宜しきを得たものと私は思う。(後略)

 1885明治18年9月4日、宮城県栗原郡金成村(栗原市)の酒造家の長男に生まれる。
 家が没落する中、古川中学山口高校を経て東京帝国大学法科大学卒業。
 海老名弾正の本郷協会に属し『新人』の編集にあたる。
 印刷会社秀英社を経て、東京朝日新聞入社。浮浪人研究会を組織。
 1911明治44年、朝日新聞退社後、統一基督教弘道会の社会事業部長に就任。

 1912明治45年2月、労働者講話会を始める。
   大正1年8月1日、浮浪人研究会や日本社会政策学会の協力を得て友愛会を結成し会長となる。労働者の修養を説き穏健で共済的な団体として出発した。
 1916大正5年ころから、労働組合の性格を強める。鈴木の提唱で友愛会に婦人部を設置し、『友愛婦人』を創刊。
 1921大正10年、友愛会を日本労働総同盟に発展させ、その後も労働運動右派の中心であった。翌11年の日本農民組合結成など農民運動にも係わる。反共産主義の立場をとる。

 ――― 「まあ、俺に任せろ」と、20貫余の巨躯に太鼓腹を突き出して自身ある一言を放つとき、全国に群がる労働者は如何に心強く感ずることか!
(―大正の侠客・鈴木文治氏―『苦学する者へ』治外山人1925苦学同志会)

 

 1926大正15年、社会民衆党の創立にも参加し、普選第一回の総選挙で当選。1930昭和5年まで務め、会長を退く。
 1945昭和20年11月、日本社会党結成、顧問となる。
 1946昭和21年3月12日、敗戦後初の総選挙に日本社会党から立候補、選挙運動中仙台で倒れ、62歳で死去。
   著書:『労働二十年』(1931)、『労働は神聖』『工場法釈義』『国際労働問題』『世界労働不安』『日本の労働問題』『民衆政治講座』など

   参考:『近代日本史の基礎知識』藤原彰・今井清一・大江志乃夫1988有斐閣ブックス

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