『日本之禍機』 エール大学教授・朝河貫一(福島県二本松)
明治期から昭和期にかけて外国で日本を対象に卓越した作品を発表し続けた歴史家、朝河貫一。その名をこれまで聞いたことがなかった。知識不足もあるだろうが、活躍の場が海外のため日本国内で紹介が少なかったせいもありそう。インターネットが発達した現代、人を惹きつける事柄はあっという間に世界中に広まる。しかし、明治・大正期はそうはいかない。その時代にアメリカの大学で教鞭をとり、研究も評価された日本人がいたのは驚くばかり。どのような人物か見てみよう。
朝河貫一
1873明治6年12月22日、福島県日本松町に生まれる。
父の朝河正澄は旧二本松藩士で文武両道で維新後、小学校の教員をつとめる。
「天保元年・慶応・戊辰・明治十年二本松藩士人名辞典」(古今堂書店古典部編1934)によると1877明治10年の旧藩士の金禄公債は600円から下は65円まであり、正澄は255円であった。それまでの家録に替え公債が支給されたのだが公債利子では生活できず、多くの士族が没落している。朝河家も例外ではなく経済的に恵まれなかったが、貫一は幼少時代から英才振りを発揮していた。
福島県立尋常中学校(のち安積高校)入学、その秀才ぶりに朝河天神とあだ名がついた。並外れた勉学振りで、英語辞書の一ページずつを覚え込んでは食べてしまい、表紙だけは残ったという逸話も残している。
1895明治28年、東京専門学校(のち早稲田大学)文学科入学、苦学のすえ首席で卒業するとアメリカ留学を志した。周囲の応援もあり、*横井時雄の紹介で渡米、翌年、横井の友人タッカーが学長をしていたダートマス大学に入学した。
*横井時雄: 熊本藩士横井小楠の長男。明治・大正期のキリスト教指導者。
1899明治32年6月、ダートマス大学を首席で卒業。9月、エール大学大学院歴史学科に入学。ヨーロッパ中世史を専攻。
1902明治35年6月、学位を得る。9月、ダートマス大学の講師として極東史を担当
1906~1907明治39年2月~明治40年8月、一度目の帰朝。
エール大学および米国議会図書館の依頼で日本関係図書を収集。
1907明治40年9月、エール大学講師。11月、エール大学東アジアコレクション部長を兼任。ミリアム・キャメロン・ディングウォールと入籍。
こののち歴史学助教授から正教授へと昇進する。エール大学では36年間にわたり教鞭をとる。日本史とヨーロッパ中世制度史を講じた。
1909明治42年、唯一の日本文著書刊行『日本之禍機』 (近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/785643 )。
日露戦争時、朝河はその原因について具体的に論じ、日本への理解を訴えて、
The Russo-japanese Conflict 出版、翌年に再版されたほど読まれた。ところが、日露戦争後の日本が「危険」な方向に向かいつつあるのをみて、『日本之禍機』を日本で出版、世界的視野にたって、日本の外交政策と教育行政に苦言を呈した。
1917~1919大正6~8年、日本中世史研究のため二度目の帰朝。東大史料編纂所に留学、入来院文書を採訪し、これを研究翻訳し英米で刊行して比較法制史学の金字塔といわれる。
大正期、西欧のマナーmanor(領主・貴族の領地)と日本の荘園、東西の封建制度を比較研究し、世界史研究史上に新しい分野を確立した。
1937昭和12年7月、エール大学正教授(歴史学)に昇進。アメリカ議会図書館内に日本書籍のコレクションを創設した。
1940昭和15年、朝河の士族的ナショナリズムはキリスト教と結合し、天皇に対して日米戦回避の試みをしている。
19426月、定年を迎え名誉教授となる。
太平洋戦争の終戦に天皇の戦争終結のアメリカ大統領あて親書の草稿を執筆するなど努力した。晩年は、年来の比較法制に関する研究の集大成をなした。
1948昭和23年、アメリカ、バーモント州ウェストワーズボロで死去。墓はアメリカと二本松市に。
参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『世界大百科事典』1972平凡社/ 『民間学事典』1997三省堂/ 『福島県民百科』1980福島民友新聞社
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