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2015年6月13日 (土)

高島炭鉱、世界遺産へ(長崎県)

Photo 2015年5月、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」として軍艦島など一連の施設が世界遺産に推薦された。釜石(岩手県)・韮山(静岡県)・鹿児島・三池(熊本県)、佐賀、萩(山口県)、八幡(福岡県)、長崎と数ある中で高島炭鉱があった高島に行ってきた。
   写真:伊能忠敬の高島測量図。

 長崎港ターミナルから乗船35分ほどで高島港着、バスで高島炭鉱・北溪井坑(ほっけいせいこう)に到着したが、閑散として説明の掲示板もなく、ただ生ぬるい風が吹いていた。周辺を歩いていたら、「後藤象二郎邸跡」碑があり、その先にグラバー別邸跡がある。
 すぐそばの海岸に石炭を運び出したらしい所があった。炭鉱からレールが敷かれていたそうで、多くの働く人がいて賑わう様が想像できた。島の人口密度は高かっただろう。この感じは写真で遺構を見るだけでは分からない、来て良かった。写真もとったし、さあ帰ろうとバス停に戻ったがバスは当分ない。
 仕方なし、友人と二人、汗をふきふき港まで40分歩いて戻った。疲れたが途中行き会った高島の人の笑顔に一息付けた。そういえば、二泊三日の長崎でたくさんの笑顔に出会った。きっと、長崎人はみんな親切。

 

 高島炭鉱の経営はトーマス・ブレークグラバーから後藤象二郎の蓬莱社、さらに岩崎弥太郎の三菱へと移る。この間のいきさつに興味がありでかけた。
 高島行き汽船はガラガラで乗客は数えるほどだったが、傍らを行き交う軍艦島クルーズ船は満杯の観光客をのせて快走、軍艦島(端島)は大人気。その夜乗った稲佐山夜景案内の観光タクシー、運転手さんが話していた。「世界遺産人気でつぶれかけた船会社が立ち直ったばかりか、高速船もふやし儲けている」。

 

Photo_2
 地味な?北溪井坑跡に、同行の歴史嫌いはつまらなそうだった。港近くの石炭史料館、岩崎弥太郎の銅像など現地ならではで、自分は興味深かったが、興味がないと何の事もない。誰もが喜ぶ万人向けの保存と展示、そんなのあるかな。
 以前当ブログでとりあげた大島高任、その彼が手がけた岩手県釜石市の橋野鉄鉱山・高炉跡も産業遺産だけど遺構はどの位保存されているのだろう。大人気の軍艦島といえども、保存や資金など難しい問題があるという。遺跡遺産の保存と展示、知恵と工夫がいりそう。

     高島の近代
 長崎市高島は長崎港から南西に14.5kmの海上にあり、壇ノ浦合戦に敗れた平家の落武者が、1185文治元年頃から住みついたという伝説の島。周辺に軍艦島と愛称される端島、中ノ島、飛島がある。
 1695元禄8年、石炭が発見され高島を治めていた佐賀藩家老・深堀家により貴重な商品として生産・事業家され、瀬戸内の製塩業の燃料などに使用された。
 幕末、オランダから海軍伝習所に派遣されたカッティンデーケは高島炭鉱を見学、伊王島高島の石炭は良質だが、鉱法が未熟で効率が悪いため、粗悪と見られているが、将来的には有望な炭鉱であると記録している。その後、高島は佐賀藩主・鍋島家の領地となり、異国船の見張り、監視する「遠見番所」を設置、長崎港警備の役をになった。

 1869明治2年、佐賀藩はイギリス商人グラバーと共同で、日本で初めての蒸気機関をつかった洋式の竪坑を作り、海底炭田を掘る近代炭鉱が誕生した。グラバーはイギリスから技師をまねき、機材をすべて輸入し洋式炭鉱の開坑を成功させた。この西洋式竪坑は北溪井坑と名付けられた。50m余り掘り下げた竪坑、蒸気機関をつかった採炭、排水設備、巻上げ機を坑内に設置し作業した。採炭場所から積み出しの船が着く波止場までレールを敷き、石炭を運搬した。現地に行くと炭鉱と海の近さがよく分かる。
 1870明治3年、グラバーが破産。グラバーは高島炭鉱の権利をオランダ商社のボードウィンに譲渡。明治6年、炭鉱が官営化され、ボードウィンに40万ドルが支払われた。
 1874明治7年、官営化からわずか一年足らず、後藤象二郎蓬莱社に55万円で払い下げられた。しかし経営はうまくゆかず後藤象二郎は負債を積み重ねた。   
 1881明治14年、交渉の末、岩崎弥太郎が後藤の負債を肩代わりして、高島炭鉱は三菱会社の経営となった。三菱は最新の設備を揃え出炭量を増加させ莫大な利益をあげ、さらに高島沖の岩礁端島(軍艦島)を手に入れ、炭鉱は三菱のドル箱となる。

     高島住民の生活
 高島には河川も貯水池もなく、ずっと水に苦労し対岸から船で水を運び生活用水としていた。そのため主婦は毎朝、家庭の飲料水を汲みに行くのが日課であった。1886明治19年、海水から作った蒸留水を飲料水にするようになったが、家から離れた水くみ場にいかなければならなかった。
 明治時代、郡区町村編成法により、西彼杵軍高島村となる。炭鉱で栄えていた時代には高島と上二子島、下二子島と3つの島の間を*ボタで繋ぎ、1935昭和10年陸続きにした。
   *ボタ:石炭として使用できない捨て石。産業廃棄物。
 第二次大戦後、高島村から高島町になり、1955昭和30年、端島(軍艦島)と合併、人口密度日本一の街となった。
 1957昭和32年、送水管が敷設され、家に居ながら水を飲んだり使ったりできるようになった。高島海底水道、端島海底水道。
 1986昭和61年、高島炭鉱閉鎖。エネルギー源の変遷などの影響から島の基幹産業が閉鎖すると、そのまま人口減少に直結。長崎市と合併する直前2005平成17年には日本で一番小さい町であった。

   参考: 『高島と端島ふたつの島の物語』2013軍艦島・高島を活かした観光振興・地域活性化委員会/ 『弥太郎の長崎日記』赤瀬浩2010長崎文献社/ 「長崎の近代化遺産」長崎市観光推進課

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