仙台の都市公園、桜ヶ丘公園・榴ヶ岡公園(宮城県)
東京・谷中に実家の菩提寺があり、墓参の帰りは上野公園を抜けて上野広小路へ出て食事をする。父親が浅草生まれだったせいか浅草まで足を伸ばすこともあった。昔、浅草六区は人人人で大賑わい、キョロキョロしながら親にしっかり掴まっていたのが懐かしい。浅草寺の境内に立ち並ぶ店は区割りで貸されていたも。
1873明治6年1月、太政官布告で府県に公園の候補地を選ぶよう指示があり、東京は3月、浅草公園・上野公園・芝公園・深川公園・飛鳥山公園の5カ所を選び、日本初の都市公園が設定された。
上野・浅草はもとより芝公園も東京タワーでお馴染み、飛鳥山公園には博物館が三つもありたまに出かける。深川公園は行ったことがないが、〔深川東京モダン館〕講座にときどき行く。
先日は龍澤潤先生【東京初の公園 深川公園】を聴講、現代では当たり前の公園が近代になって成立したのを知った。公園は誰でも入れる好ましい場所というだけでなく、歴史の痕跡が観察できる、時代の変遷をたどれるなど身近な史蹟なのですね。例えば、現存しないが昔あった建物の煉瓦を拾い、刻印を確認するとか。
ちなみに、日本最古の公園は奥州白河藩主・松平定信が1801享和元年、寺領内に築造した「南湖公園」といわれる。白河城の南の湖の意味で、李白の詩「南湖秋水夜無畑」にちなんだとも。武士も町人も利用できる茶室「共楽亭」は、南湖県立自然公園となった今も利用されているのだろう。
福島県の南湖は人の手が加わり立派な公園となったが、隣県の天然の名勝松島は、1952昭和27年、宮城県立自然公園に指定された。公園の成り立ちは自然天然のまま、人が築いたりといろいろだが、維持管理に多大な費用・労力が欠かせないのは同じと思う。
1873明治6年の太政官布告による宮城県の公園は、仙台市内「桜ヶ岡公園」で「西公園」と呼ばれ親しまれているが、併せて「東公園」という「榴ヶ岡公園」(躑躅ヶ岡・榴岡)の昔もみてみよう。
公園内に神社やお堂があるのは今も昔も変わらない気がするが、兵営や陸軍将校の親睦および研究機関である偕行社が近くにあったのは、“強兵のふるさと”ともいわれる仙台だからか。
<仙台と公園>
――― 藩政時代には無論、公園と称するものはない。釈迦堂が春の花に無二の遊覧地とされてあったのみである。1873明治6年1月15日太政官布告を以て、名勝旧蹟に四民遊覧の園地を拓かしめられた時、宮城県権令・宮城時亮は旧藩門閥、伊達安房・古内左近之助・大内縫殿の3邸地、5447坪を収め、明治8年6月初めて公園を設け桜ヶ丘公園と称したのが始めである。
伊勢堂山神明社を勧請して桜ヶ丘大神宮と改称し、また梅園を拓き、藩祖公征韓役みやげ(伊達政宗・文禄の役)若松・八房の梅を移植し、傍らに林子平の碑を立てた。園内に割烹店も開かれ、明治9年仙台博覧場を開き・・・・・・遊人好適の遊び場所となった。
1892明治25年、偕行社が建てられ、翌年には立町小学校が落成
1900明治33年 今上陛下未だ東宮殿下に在します時の御結婚大典に当たり、躑躅岡7203坪を画して県公園を拓いた・・・・・・
1903明治36年から39年にかけて桜ヶ丘公園を5173坪を拡張した。39年当時の市長・早川智寛の主唱にかかる青葉城頭天主台付近から・・・・・・天然的大遊歩地を開創する議は未だ実現されない。東北一の都会にある公園としては桜岡公園は不完全極まるものである。
(『仙台繁昌記』 (富田広重 1916 トの字屋)
<桜ヶ岡公園>
広瀬川を隔て、川内諸兵営に臨み、近く青葉の翠巒に対し西北遙かに群山を望む、園内梅桜を植栽し、四時の風趣掬すべし、園の中央に桜ヶ丘大神宮あり、関東には立町小学校あり、また北に隣りて仙台偕行社なり。
<躑躅ヶ岡公園>
仙台市の東端に在る高陵にして、往昔躑躅樹多く、つつじ摺を産したりといふ、昔、国分鞭楯の古塁にして、1695元禄8年伊達綱村、釈迦堂建設に当たり、この地を相し垂糸桜数百株を植え、騎射場を設け、併せて子女遊覧の地となしたるものにして、花時遊客雑踏す、岡西に天神社あり、維新後、岡東に兵営を建設す。歩兵第四連隊これなり。
(『東宮行啓記念宮城県写真帖』1908宮城県)
<榴ヶ岡(桜)>
名勝(1924大正13.12.9内務省告示第777号指定)
所在地: 宮城県仙台市榴ヶ岡
所有者: 国有
管理者: 陸軍省・宮城県
(『指定史蹟名勝天然記念物国宝・第11輯』1937宮城県史蹟天然記念物調査会)
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