明治維新、城の運命
城郭などは要りて、要らぬものなり。
良き大将の良き人持ちたるは、城郭必ずあるものなり。
悪しき大将の人持たぬは、城郭如何に堅固なりとも無益なり。
“城郭は要りて要らぬもの” 敵を防ぐの要は人心に在りて城郭に在らずといったのは、安土桃山・江戸前期の大名で初代佐賀藩主・鍋島直茂。文禄・慶長の役に加藤清正と組んで朝鮮に出陣し、帰国後、徳川家康に誼を通じた。
城は、この鍋島直茂が活躍した桃山時代に発達した。それまでの城は文字通り「土」と「成」、土から成る土塁であった。それが、本丸・二の丸・三の丸と三重の構え、濠を廻らし水をたたえ、濠の後側に石垣を積み、その要所要所に櫓、中心には天守を築くようになった。
信長の安土城、秀吉の大阪城および伏見城、家康から家光の代に完成した江戸城は今なお、その片鱗、断片を遺している。最もよく保存されたものに、秀吉創建の姫路城があり、天守の有名なものが名古屋城である。
その名古屋城の天守について。修復をコンクリートと木材のどちらでするか名古屋市が悩んでいるという。昔ながらの工法、木材がいいと思うが、それには莫大な費用がかかる。時間と金をかけ文化を伝えるのか、観光優先で修理を急ぐか、悩むのも無理もない。
それにしても江戸の昔、全国に大名がいてそれぞれ城があったのに、残る城は少なく、ほとんどが城址、城の跡。人々が振り仰ぎ、絵になる御城の白壁と天守、その多くがどうして消えた。
明治維新の激変で、旧幕時代時代のものといえば何に限らず無用の長物視されたのである。城も「順従唯一の王臣に、城郭の必要なし、真っ先にこれを廃毀(はいき)せし者ほど、恭順者文明人と見らる」と、諸国の城郭なども城地を平らげ、桑茶を植えたりして城が毀(こわ)された。
1868戊辰戦争中の9月15日(9.8明治と改元)但馬国出石の城。藩主千石利久が城郭を毀した。
1870明治3年9月、近江の古城でよく知られた江州膳所の城も、本多藩知事が無用の長物として城楼櫓を毀撤(きてつ、取り壊し撤廃した。
同年12月、名古屋城天守の金の鯱鉾(しゃちほこ)、これを名古屋藩知事徳川慶勝が無用の長物として新政府に献じ、かつ、楼櫓と城内の部屋をこわして修繕の費用を省き藩庁経費の足しにした。
ちなみに、東京に送られた金の鯱鉾は博覧会の呼び物となり、その縁で楼櫓とともに残った。
1871明治4年1月8日、仙台の白石城。毀して資材を*片倉邦憲に与え、北海道開墾の費用に充てたのは、「意義ある毀撤」(石井研堂)であった。
*片倉邦憲: 伊達家重臣で白石片倉家12代当主
同年2月、伊勢国田丸野の城。営繕費がかかるので、太政官に願い出て取り壊した。
1873明治6年の〔布告類編〕:「旧城郭 陸軍省所轄の外大蔵省へ属す」
「旧藩城郭内士族邸地の税を収む」
廃城となれば城内に居住する元家臣、士族も出て行かなければならない。住めても税を納めなければならない。
小田原城が廃城となったとき、一時、足柄県の県庁が置かれ、のち御用邸となるも、関東大震災後廃邸となった。その後、学校・公園の用地となる。
全国の城はこのような運命にあい取り崩されたが、熊本城は、細川熊本県知事が城郭の撤廃を上奏すると、「名将の築きし城池なれば願わくばこのままにして、考古の一班に供したし」という人があり残った。築城技術で有名な加藤清正が築いた熊本城、西南戦争でも知られる。
また彦根城も、毀される運命にあったが行幸の折に、「惜しいから残せ」と仰せられ、今に残る。
陸軍省は1889明治22年頃まで、城を管理していたがこの間だいぶ荒れてしまった。わずかな歳月の間に石垣は崩れ、濠には塵土が多く埋まり、廃墟にして置くよりほか致し方ない城も多かった。
それもあってか、縁故ある者に払い下げることになり、幾多の歴史を有する静岡・小田原・津・福井の各城、奥羽では白河・若松・山県・秋田、西では岡山などをふくむ43城が民有になった。旧藩主で資力ある者はこれを自分の持地にしたが、他の多くの城は公共団体が引き受けた。
旧城址はたいてい公園となり、地方の歴史を一木一草に至るまでが城下町の記念物として人を惹きつける。今なお、お城自慢できる地域は長く自慢をするためにも大事に守っていくだろう。
そのいっぽうで、荒れた城址といえども詩人と音楽家がたたずめば、情感豊かに城がよみがえる。土井晩翠と滝廉太郎の「荒城の月」が胸に迫る。そう、城址もれっきとした歴史の遺物、どの城も大事にされ後世に残るよう願う。
天上影は替らねど 栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月
参考: 『武人百話:精神修養』金子空軒・北村台水編1912帝国軍事協会出版部 / 『日本建築の実相』伊東忠太1944新太陽社 / 『明治事物起原』石井研堂1971日本評論社 / 『明治大正史・世相編』柳田国男1967平凡社
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