横綱の始め、谷風梶之助 (宮城県)
「わしが国さで見せたいものは」と仙台の郷党が自慢の古今の名力士、谷風梶之助は
1750寛延3年8月8日宮城郡霞目村に生まれた。父は金子彌右衛門、名を與四郎という。
與四郎は9歳頃には米俵を担いで数里を往復したという幼い頃から力持ち。15、6歳頃に霞目村の鎮守で宮相撲があったとき荒牛が駈けこんできて、年寄り子どもが逃げ切れず蹴散らされそうになった。そのとき走り出た與四郎が牛をさえぎると、牛は一瞬踏みとどまった。その牛の角に手をかけ腰を沈めた與四郎は腕に力を込め「エイヤ」掛け声と共に押すと荒牛がたじたじと退いた。
このとき、江戸の大相撲がかかっていて通り合わせた大関の関の戸音右衛門が、與四郎の力業を見た。関の戸に弟子入りを勧められたが、與四郎は一関の領主片倉家に召出され、秀の山と名乗り郷里で角力の稽古に励んだ。
日本特有のスポーツ相撲(角力)は、古く『日本書紀』にもあり、平安時代は年中行事として毎年7月相撲節が行われていた。江戸時代になると大名の間に力士を抱えることが流行、1764~1780明和-安永ころには江戸の勧進相撲が制度化し、江戸相撲が全国的中心となっていた。秀の山こと谷風はこうした時期に活躍したのである。
さて、精進を重ね近隣では相手になる者が居なくなった秀の山は19歳で、江戸の大関関の戸に入門。関の戸はさっそく秀の山を土俵に連れ出し稽古をつけた。すると、怖ろしいほど力があるばかりか、腰もたしかで技もすてきに早い。関の戸は師匠の自分さえも負けそうだと驚き、すぐさま関脇にした。すると、相手方の力士は「何だ田舎上がりの青二才か」とかかっていったが誰も勝てなかった。
翌年、秀の山は伊達の関森右衛門と改名、なんと関の戸は自ら関脇に下り、伊達の関を大関に据えた。
伊達の関は力量が優れているばかりでなく、心だてがいかにもやさしく、おまけにこだわりのない天晴れ相撲取りだったが、これを見抜いて大関を譲った関の戸も天晴れである。
八年の間、三都で相撲を取ること220回、その間、敗れること僅か11回。
なお、谷風は前後26年角界にあったが2764回の勝負のうち敗けは4回、豪勢なものである。ものの本によって負け数が違い、相手に同乗して負け、賞金を相手に取らせたという逸話もあるし正確な数は分からないが、ほんとうに強かったのは間違いない。
1776安永5年、27歳。小結の時に谷風梶之助となる。
1789寛政元年11月、本朝相撲司*吉田追風家から横綱を張ることを許される。気立てがよく、身長180cm余、体重160kg余、色が白くて*眼が細く、極めて大人しいから当代一の人気者であった。円満、高潔の人格者として逸話が多くある。
翌年3月、京都で天覧相撲があり光格天皇に拝謁を賜る。帝は南殿の御簾を掲げ給い、谷風の腕を撫し、あっぱれの骨格よと御嘆賞あり。色々な物を下賜された。
*吉田追風家: 参照。〔立行司、八代目式守伊之助 (岩手県)〕
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/02/index.html
*眼が細く: <女は鈴張れ、男は糸引け> 女の目はぱっちり、男の目は切れ長がいい。
谷風と小野川
小野川喜三郎は、近江の人で大阪で相撲の修業をし、21歳の時に江戸に出るとたちまち大関に進み、谷風に次いで横綱を張ることを許された。ところで、勝負事は相手がなくては面白くない。谷風は下り坂の40歳頃になって、やっと小野川という相手を得たのである。
その小野川は谷風と対戦したとき、故意に数回の「待った」をして、肥満している谷風が疲れが出たところを見すまし、不意に立って谷風の胸を突いて勝った。
これに谷風は、「小野川と角力して勝たざるは、75貫目の力を以て胸骨を突かるるためなり、小野川と同量の土豚を作り、之を胸に受けて練習」、小野川を破った。小野川は卑怯なようであるが、力量が上の相手に向かう場合にはやむを得ないという説もある。
1791寛政3年6月、徳川十一代将軍家斉の上覧相撲が行われた。ときに小野川34歳、美男で身の丈も、目方も、谷風に比べれば小柄であるが、色あくまでも黒く、身体が頑丈でいかにも強そうに見えた。この勝負、取り直しとなったがめでたく谷風の勝となった。
その翌年、大阪で又また、谷風小野川の取り組みがあった。小野川が激しく突くのを谷風は踏みこたえたが、遂に土俵際まで押し出され危ないところを押し戻して、土俵の真ん中に立ちかえり、もみ合って同体に落ちた。行司は、小野川の体が上にあったというので小野川に団扇を上げると、物言いがついて大騒ぎ。
重箱を投げる、座布団を放る、納まりがつかず一晩中かかってようやく、勝負なしの預かりということで静まった。川中島の合戦は、武田信玄が死んだのでそれなりけりであったが、この谷風小野川の取り組みもそれ、谷風が死んでそのままになった。
1795寛政7年正月9日、谷風梶之助は流行り風邪がもとで46歳で死去した。世の人、谷風の死を惜しんで、その流行り風邪を谷風風邪と呼んだ。
妻は東都医官・大田氏の娘。子ども4人。
谷風の遺物
谷風は、表面は片倉家の抱え角力になっていたが、内幕は仙台侯のお抱えであった。その谷風が用いた黒椀は容量5升というから、稀に見る大椀である。
仙台河原町の呉服問屋沢口安左衛門の子孫の家に谷風の遺品が保存され、化粧褌(けしょうまわし)の地は、白ビロードで、表に黒ビロードで「谷風」の二字があるばかり、意匠も飾りもない極めて質素なものだった。ただ、谷風の文字は日本一と称された書家、深川の親和の揮毫である。
その他、1771~1779明和8年から安永8年まで9年間、13ヶ津(津:人の集まる場所)における勝負附と、1790寛政2年江戸の本場所の番付も同所にあった。また、生まれ故郷の霞目村には弓一張が残された。
参考: 『宮城郡誌』1928宮城郡教育会/ 『仙台繁昌記』富田広重1916トの字屋/ 『お伽文庫.1』髙野辰之1912春陽堂
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