戊辰後は自由民権運動そして衆院議員、内藤魯一 (福島県・愛知県)
福島県ゆかりの人物を探していたら、「(生)陸奥国福島、(出)愛知県碧海郡上重原村。自由民権運動家。衆院議員(政友会)、政治家」という内藤魯一が目についた。福島県で生まれたのに遠く離れた愛知県で活躍したらしい。何故?人名辞典をひいたら
――― 戊辰戦争に際し官軍に内応、とあった。
会津人柴五郎を知って以来すっかり会津贔屓になっているから、「官軍に内応」にがっかり。でも、待てよ。内応には事情があるかもしれない。
東北諸藩そろって奥羽越列藩同盟に参加が人情として無理もないし、列藩同盟側に同情する。でもその一方で、それぞれの藩と藩の利害と親近感、見聞が広く情報をもつ藩士に耳を貸すかどうかで敵味方になることがあった。それらを察すると、「内藤魯一の内応」に汲むべきものがあるかも知れない。ついでに、維新後の生き方も見てみよう。
内藤 魯一
1846弘化3年、福島藩家老内藤豊次郎の長男として 現在の福島市に生まれる。幼名は詮太郎。
内藤家は代々福島の譜代大名板倉氏に仕え、320石を受ける家老の家柄であった。内藤は物頭となって福島城の警備にあたる。戊辰戦争がおこると福島藩は奥羽越列藩同盟に属した。
内藤はこれに反対して孤立。しかし、敗北後は事態の収拾に力を尽くした。深い事情は判らないが、この間の行動が「内応」とされるなら、内応=裏切りのイメージは違うような気がする。ともかく、福島藩は岩代国大沼郡と三州重原(愛知県刈谷市)の二ヶ所に振り分けられ、内藤は1868明治元年、三河重原藩士として、多数の士族とともに三河の重原の地へ移った。
23歳の若さで執政大参事となった内藤は、士族の生活を守るために、抜本的な行政改革を行い、地域開発に取り組んだ。
1871明治4年、廃藩置県。内藤は早くから廃藩置県を予想し、近隣の山林原野を開墾地として公平に分配したり、茶や桑の栽培を奨励したりした。
1879明治12年、愛知で旧重原藩士と周辺の豪農を中心とした三河交親社を設立。
1880明治13年、愛知県有志を一本に纏め、組織を拡大して愛知県交親社を設立した。
同年3月に大阪で開催された*愛国社第4回大会には愛知県交親社の代表として参加。
*愛国社: 立志社の呼びかけにより各地民権政社の代表が大阪に集まり結成。この第4回に112名が参加、自由民権運動の指導的役割を果たした。
同年12月9日、国会開設の請願のため太政官門前に詰めかけ、凛然たるこの寒風の下に立ちて、大臣に面会を乞わんとせしも入門を許されざれしは、新潟県羽生郁二郎・山際七司・岡山県小林楠雄・青森県菊池九郎・福島県原平蔵・内藤魯一・宮城県若生精一郎 ・・・・・・ 都合13県、26名の烈士なりしとか〔明治13.12.14東京曙新聞〕。
愛知交親社の分裂後、内藤は県下の民権運動の指導者として活躍、また板垣退助の秘書となり、「三河板垣」の名前で呼ばれた。後に自由党結成の際、常議員となり「日本憲法見込案」(私擬憲法)を起草。地域新聞に発表したが、その内容は民権運動家の内藤魯一の政治姿勢をよく表していた。
1882明治15年4月6日、東海道遊説に出た自由党総裁・板垣退助が岐阜で演説のとき遭難した。板垣を襲った暴漢を投げ飛ばし取り押さえ、窮地を救ったのが内藤魯一である。この遭難事件の際、板垣が叫んだ「板垣死ストモ自由ハ死セズ」は、民権運動の合い言葉となった。
<板垣君遭難之図(一陽斉豊宜画)>
1884明治17年、*有一館長となる。自由民権運動の激化事件として知られる加波山事件に連座、2年間獄中生活を送る。
*有一館: 自由党が文武研究所として創設し片岡健吉が主監していたが、内藤がこれに替わった。『自由党史』によれば館員は全国から集まった40数名。
福島・栃木の自由党員が政府高官の暗殺を計画し発覚した加波山事件をはじめ、高田・群馬事件で党員の統制力を失った自由党はこの年10月解散。
解党後、北の新地裏町・静観楼で有志懇親会を開く。板垣退助・片岡健吉・大井憲太郎ら106名、それに内藤魯一も出席した。
1890明治23年7月、第一回衆議院議員選挙に出馬するも落選。他県生まれ、選挙干渉というハンディにより落選。この後、愛知県会議長を4期10年以上つとめ、明治用水の整備や名古屋港の築港に力を注いだ。
1906明治39年、再び衆議院議員選挙に立候補し当選。伊藤博文を中心とする立憲政友会に所属した。以後、当選2回。
1911明治44年、代議士現職のまま、64歳で死去。墓所は愛知県刈谷市の竜江寺。
参考:
<ウイキペデア> /<愛知エースネット> http://www.apec.aichi-c.ed.jp/ /『自由党史』宇田友猪・和田三郎1910五車楼/ 『コンサイス日本人名辞典』三省堂/ 『日本史辞典』角川書店・/ 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社/ 『明治日本史発掘 2』1994河出書房新社
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