会津人柴五郎と竹橋 & 8月15日(福島県)
この春から毎月一回、漢詩入門聴講に、皇居竹橋前・毎日新聞文化センターに通っている。きっかけは今、興味をもって調べ中の山東直砥がつくった漢詩を理解したいと思ってである。しかし今はただ楽しく通っている。以前放送のNHK「漢詩をよむ」でおなじみの先生の講義は漢詩についてはもちろん、行間がまた豊かでおもしろい。きっと、先生の胸中には中国四千年が息づいている。
詩経からはじまり杜甫や李白はもちろん近世まで多くの詩、漢詩人のエピソード豊富、遠い時代の中国の人物に血を通わせて紹介されるので分かりやすい。何百年昔の中国の詩人に親しみさえ覚える。難しいことをいとも簡単にやさしく教えてくれる先生に感心するばかり。それにまた、先生が中国語で漢詩を暗誦するとまるで音楽のよう。韻の大切さがおぼろげながら理解できる。
しかしながら、漢詩は難しい。そこで、普及活動をされているそうで、その一つが「藩校サミット」。8月は高校野球甲子園大会、代表校のなかには難しい校名がある。江戸時代の藩校の名に由来するらしい。地方へ出張して講義をされるそうで、各県の漢詩人の名を挙げて楽しそう。日本の漢詩も造詣が深い。
ひょんなことから先生が柴五郎の子孫と教えてくれる人がいた。柴五郎ファンで『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』筆者として、こんなうれしいことはない。思い切って先生に伺うと、柴五郎の姉(望月つま)の子孫と教えてくださった。
柴五郎の祖母・母・姉妹五人は、戊辰戦争のさなか自害し、ただ、望月家に嫁いだ姉が生き残った。そのご子孫に出会えてうれしい。
その日、皇居の竹橋にも因縁を感じずにはいられなかった。その竹橋駅(東西線)の真上にある毎日新聞社敷地は、戊辰戦争で敗れた会津藩士謹慎場所「一橋御門内御搗屋」(幕府糧食倉庫)だったのだ。柴五郎も兄とそこに謹慎していたその場所で子孫にお会いするとは、なんという偶然。そこで、柴五郎の話を『ある明治人の記録』 『紙碑・東京の中の会津』(牧野登1980日本経済評論社)より引用。
そして戦後70年は、柴五郎没後70年でもある。柴五郎の8月15日についても記す。
――― 苦しき旅、十余日、東京に到着せる日、七月初旬にて、梅雨明けの蒸暑さ、堪えがたく、幕府糧食倉庫に着きたる時は、疲労困憊、流汗淋漓たり・・・・・・中央に通路ありて両側に一人一畳ずつの荒畳を敷き十余間見通しなり・・・・・・風通し悪きうえ蚊蝿の類多く不衛生なれば、寝苦しきまま板壁をはずす者多し。太一郎兄いずこより入手せるか知らざれども、翌晩より破れ蚊帳張りて、余と共に就寝せり。
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1945昭和20年の元旦は警戒警報発令で明けた。この戦争も4年目となり、敵機が頭上を驀進する有様で、前年11月からB29が東京上空に姿を顕わした。
柴五郎の次女春子は空襲で焼け出され、娘二人を連れ着の身着のまま世田谷の柴邸に逃れた。戦況が厳しいのはわかっていたが、軍人の家なので家財を持ち出したり逃げ出すこともできず、みすみす丸焼けになってしまったからである。
当時の柴邸には、五郎と長女みつ、春子母子三人、姉望月の息子そして女中と7人が住んでいた。五郎は少し足が不自由になっていたが毎日畑を耕していた。
フィリッピン防衛戦では日本軍の戦死多数で敗戦続きの日本兵は山地を逃げまどい、ついに硫黄島も戦死2万人をだし玉砕した。硫黄島を占領したアメリカ軍はここから日本空襲を援護し3月9日夜から東京大空襲がはじまり空襲の死者は8万人にもなった。大爆撃により大阪・名古屋の大都市や地方都市も炎上、国土は焦土となった。
5月ドイツ無条件降伏。日本も降伏を考えなければならない時が来たのに日本軍はなお沖縄でアメリカ軍と戦い、やっと六月末死闘もほぼ終わり、アメリカが沖縄を占領した。沖縄決戦は「ひめゆり部隊」の悲劇をふくめて九万の将兵が戦死、十五万の島民が犠牲となった。なんと、犠牲者は将兵より一般国民の死者の方が多かったのである。降伏以外の終戦はあり得ない時に至っても、最高戦争指導会議はなお最後の一大打撃を与えて、多少とも有利な和平をめざそうと本土決戦を決定した。
7月、ベルリン郊外のポツダムでアメリカ・イギリス・ソ連が会談、ドイツの戦後処理および対日無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。しかし、日本政府は黙殺。これに対する連合国の回答が広島と長崎への原子爆弾投下であった。
八月十五日の午前中、関東地区に250機の艦載機が来襲、その正午にポツダム宣言を受諾する玉音放送。朝鮮ソウルで、総督府従業員は15日のラジオ放送で涙した。その反対に日本の敗戦により解放された朝鮮の人々は、国民服やモンペを脱ぎ捨て、チマ・チョゴリ姿で街を歩きはじめた。韓国では8月15日を光復節として祝っている。
8月15日、柴五郎は正座して玉音放送に耳を傾けた。気力が衰えたのか敗戦の12月13日、87歳で世を去った。軍国主義を捨て去った時、陸軍大将の死亡記事は短い。朝日新聞はかんたんな経歴と末尾に「宮中杖を差許された」と一行。
柴五郎の死と同じ12月13日ニューヨークでノーベル賞祝賀会があり、原子爆弾製造への道をひらいたアインシュタイン博士が注目された。かつて来日し大歓迎された博士は広島・長崎の惨状を知ってか、
「恐怖から解放せられるべき世界は戦後に却ってその恐怖を増大した。諸国が相互に対する態度を改めないならば、これによって惹起せらるべき惨害は筆舌に絶するであろう」と世界に警告した(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より)。
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