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2015年8月29日 (土)

仙台医学専門学校、藤野先生と魯迅(宮城県)

  今夏は東京でも35~6℃が当たり前のような猛暑、でも高校野球熱戦続きの甲子園球場はもっと暑かっただろう。決勝戦は宮城の仙台育英と神奈川の東海大相模の大一番、東北に優勝旗をと念じながらテレビ観戦。結果は仙台育英の夢持ち越し・・・・残念。東北人ではないが、がっかり。記録を見ると、東北勢は1915大正4年から今大会まで11回決勝に進んでいる。なのに遠いあと一勝、次こそがんばって!
 仙台育英の活躍に触発され、明治期の宮城県の学校をと考えた。そういえば仙台医学専門学校というのがあった。日露戦争のころ、藤野先生が中国からの留学生・魯迅に教えた学校である。

          仙台医学専門学校
 1901明治34年4月、仙台の第二高等学校から医学部が分離されて設立された。仙台二校医学部の校舎、職員・生徒を引き継いで開校。
 医学科と薬学科を置き、新規入学生を加えて同年9月、修業年限4年で発足。医学士の養成にあたる。当時「もっとも就職率のよかったのは仙台医専でした」(卒業生新見医師)。
 このとき、仙台のほか千葉医学専門学校(旧第一高等学校医学部)・岡山(旧第三高等学校医学部)・金沢(旧第四高等学校医学部)・長崎(旧第五高等学校医学部)が設立された。

       「文部省職員録」明治37年 
  仙台医学専門学校  仙台市片平町
  長  二等二級俸 兼教授・正五位勲四等  山形仲藝 (外科学)
  教授 三等(兼)  校長          山形仲藝
  教授 三級俸   従五位勲六等・医学博士 内田守一 (内科学)
           (中略)
  七等十一級俸   従七位   小高 玄  (ドイツ語)
  八等十二級俸          藤野厳九郎 (解剖学)
  所教授 五級俸         玉造彌七郎 (薬理学) 以下略            

 1911明治44年1月、仙台に東北帝国大学の理科大学が開設される。
 1912明治45年3月、東北帝国大学に医学専門部が開設、これに併合された。
 1915大正4年、東北帝国大学に医科大学が開設され、医学専門部も廃止となる。

          藤野先生魯迅

 1904明治37年2月、日露戦争開戦。9月から一年半、清国留学生・魯迅が仙台医学校で学ぶ。
 魯迅の本名は周樹人、浙江省紹興の人。周作人は弟。魯迅は読書人の家に生まれたが、少年期を困苦のなかで送る。南京の学費官給の学校に入学、西欧の近代科学思想を学んだ。官費留学生として日本に留学。東京弘文学院で日本語を勉強したのち東京に近い千葉医専でなく、仙台医専に入学した。
 魯迅
 「仙台へきてから優待をうけたのです。学校が授業料を免除してくれたばかりでなく、二、三の職員は、わたしのために食事や住居の世話までしてくれたのです」
 「そのとき、はいってきたのは、色の黒い痩せた先生でした。八字髭をはやし、眼鏡をかけ、大小とりどりの書物を抱えていました。わたくしは藤野厳九郎というもので・・・・・・ 自己紹介をはじめると、後の方でどっと笑うものがいたのです。続いて彼は解剖学の日本における歴史を講義しはじめたのです」
 「在校一年になり各種の事情に通暁。うしろの方にいて笑った連中は、前学年に落第して、原級にとどまった学生でした」

 藤野先生によばれて研究室にいってみますと、藤野先生は、人骨やら――多くの頭蓋骨やらの間に座っていたのです。
 「わたしの講義は、筆記できますかね」
 「すこしできます」
 「持ってきてみせなさい」
 ノートを差し出すと、一日二日して返してくれ、その後毎週みせるようにいわれました。返されたノートを開いてみると、はじめから終わりまで、全部朱筆で添削してあったばかりでなく、抜けた箇所が書き加えてあり、文法のあやまりまで訂正してあるのでした。それは先生の学課・骨学・血管学・神経学の終わるまで、ずうっと続けられたのです。

 細菌の授業で幻灯が使われ、終わって時事が写し出された。仙台は第二師団のある軍都であり、日露戦争が映し出され、ロシアと戦って日本が勝つ場面ばかりでした。そのなかに、ロシア人のスパイを働いたかどで、日本軍に捕らえられて中国人が銃殺される場面がありました。それを取り囲んで見物している群衆も中国人であり、教室でみているわたしも・・・・・・ 教室の学生たちはみな手を拍って「万歳!」歓声をあげた。わたしにとっては、このときの歓声は、特別に鋭く耳を刺したのです

 ―――ああ、もはやいうべきことばを持たないのです。
 わたしは藤野先生をたずねて、医学の勉強をやめたいこと、仙台を去ることを告げたのです・・・・・・
 わたしが師と仰ぐひとのなかで、先生はもっともわたしを感激させ、励ましてくれたひとりなのです。先生のわたしに対する熱心な希望と、たゆまぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生まれることを希望することなのです。大にしては学術のためであり、あたらしい医学の中国へ伝わることを希望することなのです。先生の性格は、わたしの眼中において、また心裡ににおいて、偉大なものなのです。
  藤野厳九郎記念館: 藤野の旧宅を復元したもの。隣接する社会福祉センターには、多数の遺品や資料が展示されており、昭和58年に友好都市関係を結んだ魯迅の出身地・中国浙江省の紹興市との永続的な発展を願い、国際交流センターも開設した(『郷土資料事典・福井県』人文社)。

   参考: 『明治時代史辞典』(2012吉川弘文館/ 『魯迅伝』山田野理夫1964潮文社

    ***  ***  ***  ***
 第104回全国高校野球選手権大会、兵庫県西宮球場で決勝が行われ、仙台育英(宮城)が下関国際(山口)を8:1で破り、春夏通じて初優勝を果たした。東北勢は過去に春3回、夏9回決勝で敗れており、初めて勝利し、優勝旗の「白川の関」越えを成し遂げた(2022.8.23毎日新聞)。

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