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2015年8月 1日 (土)

南部藩、御用商人(高島嘉右衛門・村井茂兵衛・小野組)

  幕末明治のあれこれで「小野組」を見かけ、三井・三菱と似たようなものと思っていたが、終り方があまりに急なのが気になった。それで『小野組物語』を読み、組織の不和や政治が絡んで崩壊したのを知った。ところで、物語に出てくる何かと御用金を命じる南部藩に目がいった。南部藩に限らずどこの大名も御用金を命じそうだが、たまたま高島嘉右衛門の「南部藩への貸金三万五千円の抛棄」という話を読んだことがあり、南部藩にまつわる商人をみてみようと思った。

    高島嘉右衛門

 明治の実業家・易学家。15歳で南部領釜石鉄山の監督に赴き、のち江戸で家業を継ぎ、南部・鍋島藩主との結びつきを強めた。そして、1871明治4年廃藩置県の際、
 ―――南部家より「今般廃藩となりしに就いては、藩の財産及び負債とも一切朝廷に差出し、大蔵省にてご処置相成るべき筈につき、予て其許より借財となれる分もこの際その筋に提出すべければ、その元利金額悉皆取り調べたる上申し出られるべし」

 南部藩が高島から借りた金を大蔵省が国債にして渡してくれるから元利金を申し出るようにと、高島にとっては何よりの話だ。しかし「無しにしていい」と高島
 ――― 国家の財政を顧みれば、前途いよいよ多事、新たに廃藩置県を決行し、諸侯並びに諸藩士は藩籍を奉還しその禄高を上納し、これに代うるに金禄公債を拝受せらるる。之がなければ衣食の道を失う。が自分は昔の御用立金を今更に断じて受ける意なし。

 南部家の大参事大浦東次郎、少参事*佐藤昌蔵たちは、「強いて辞退とあらば無理に勧めないが、政府より下付せらるるものなれば、何にも遠慮には及ぶまじきに」と不審顔で納得いかない様子だったが、この話はこれで終わった。ところが、同じ南部藩の金策をした盛岡の商人村井茂兵衛は廃藩置県後、疑獄事件に巻き込まれてしまう。
   *佐藤昌蔵:<北海道大学育ての親、佐藤昌介とその父、佐藤昌蔵(岩手県)>
   https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/10/post-ae0c.html

   村井茂兵衛、尾去沢事件

 盛岡城下の豪商・村井は南部領の尾去沢鉱山の経営を任されていた。しかし、明治維新の際に南部藩は20万石を13万石に削られてうえに、70万両の献金を命じられた。
 南部藩は村井に金策を依頼、村井はイギリス商人オールトに頼み金を借り、破約の場合には2万5千両の違約金を払うことにした。ところが南部藩の重役は外国商人からの借金を拒絶しろということになり、村井は後で立て替えた違約金を藩から返済してもらった。その際、慣習に従って「奉内借」と記した受取書をだした。

 1871明治4年廃藩置県。各藩の債権債務を引き継いで整理に当たった大蔵省は、その受取書をみて、村井が南部藩から2万5千両の借金をしていると解釈した上に、銅山の採掘権料が一部未納になっているとして村井の財産を差し押さえてしまった。
 1872明治5年3月、大蔵省は尾去沢鉱山を没収、尾去沢事件である。村井は南部藩には多額の貸付金があるが返却を受けてないこと、銅山没収は不当であることを強く主張したが、はねつけられてしまった。そして結局のところ、銅山は井上馨の所有になってしまった。次の小野組の破綻も政府内部の力関係と無縁ではない。

     小野組

 明治初期の政商。先祖は小野組の始まりは近江から出た*糸割符商人、両替商。
   *糸割符: 江戸時代、外国船がもたらした白糸(生糸)の売買に幕府が、堺・京都・長崎・江戸・大坂の商人に許可した独占権、また、その証書。

 小野家は、琵琶湖西の大溝(現滋賀県高島町)からみちのく南部(岩手県)へ進出。南部地方の大豆や生糸・紅花・漆・大小豆・砂金などを京都や大阪、上方へ持ち込んで商う。反対に上方からは、古着・茶・薬・砂糖・傘・京人形・呉服・扇子・線香などを南部地方へ運んだ。
 1695元禄8年、冷害と大暴風雨による大飢饉で餓死者4万人。南部藩は盛岡城下の商人らに救済費御用金を命じ小野家もこれに応じた。
 南部藩は領内産金が衰微、幕府の普請手伝いなど財源に窮し、商人の御用金(借上げ金)に頼ることが多くなった。近江・京都の他に盛岡紺屋町・盛岡八戸領・盛岡呉服町・盛岡十三町・盛岡穀町・盛岡材木町・盛岡三戸町などに店をもつ小野家への割当は多かった。
 天保年間。南部地方は大飢饉と不況が尾をひき藩財政は極度に逼迫、莫大な御用金が商人に課せられた。当時、小野家も危機的なほど負債を抱えていたので藩財政から手を引き追放処分になった。翌年、追放は解除されたが内部のギクシャクが影を落とした。

 1868慶応4年、王政復古の大号令。戊辰の戦小野組三井組島田組の三家で新政府軍に二千両献金した。そのほか、政府の会計基金300万両を調達するため、小野組と三井組は大きな役割を果たした。
 1868明治元年、小野組当主・小野善助は三井組・島田組とともに明治新政府の為替方を命ぜられ政府の為替方として活躍。
 1872明治5年、三井小野組合銀行(のち第一国立銀行)を創設。取扱官金の借入で、東京築地・福島に製糸工場、阿仁・院内の鉱山や製紙経営など事業を開発拡大。
 こうした官金を利用した経営拡大、各府県の為替方として勢力をふるう小野組に対し政府は、官金預り額に相当する担保をだすよう迫った。これには政府部内の派閥争いもからんでいるようだが、ともあれ短期間に貸金回収や不動産売却は不可能で小野組は破綻する。
 1874明治7年、島田組と共に小野組は破産。小野組破産後、生糸買い付けなどを担当していた古河市兵衛は鉱山経営に手をのばし足尾銅山を手に入れる。

『異色の近江商人・小野組物語』(久保田暁一1994かもがわ出版)/ 『呑象高島嘉右衛門翁伝』(1914植村澄三郎)/ 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社/ 『角川日本史辞典』1981角川書店

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