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2015年8月 8日 (土)

広島県産業奨励館(原爆ドーム)  

 高校生の孫はスマホだ、ラインだと、一人でも忙しい。私のその年代は、テレビがまだ全所帯になく、プロレス中継の晩になるとご近所の人が集まってきて賑やかだった。半世紀も違えば様変わり、環境や世代間のズレは当然。でも伝えていかなければならない事がある。戦争についてだ。
 私も戦争の現実は知らないが親から話は聞いてる。戦後の苦労話もよく耳にしたし、♪原爆許すまじ、許すまじ原爆を~と歌う女性の透き通った声も今も耳に残る。上野公園・西郷さん銅像近くの階段にいた白衣の傷痍軍人を見て子ども心に気の毒に思った。戦争はいけないと自然に学んだ。
 ところで、戦争に関する話を子や孫にしたことがない。日本が戦争をしたことさえ知らない若者がいると聞いて驚いたが、彼らに何も伝わっていないからだ。伝えてこなかったこと、遅まきながら反省。なぜなら、現在、戦争が親たちの思い出話でなく、遠くない先に起こりそうな気配がある。徴兵制が復活するんじゃないか、そんな不安もよぎる。戦争を知らない世代が舵をとる日本、そっちに傾くのだろうか。軍需都市広島が平和都市になって営む慰霊祭、テレビの映像を見つつ思いを巡らせるが何も纏まらない。平和が続くことを祈るばかり。
 はじめて原爆ドームの写真を見た時、円いドームから東京神田お茶の水にあるニコライ堂のような教会なのかと思ったが、産業奨励館だったという。いつ建てられ、どのような営みがなされていたのだろう。
Photo
       広島県産業奨励館

 広島市猿楽町。 1910明治43年県会において建設決議、1914大正3年1月起工、同4年3月竣工、8月業務を開始。はじめ広島県物産陳列館と称したが1921大正10年広島県立商品陳列書と改称、1933昭和8年11月1日広島産業奨励館と改めた。
 当時、元安河畔の*輪奐(リンカン)の美は市内建築物の最もモダンな誇りであった。業務の要項は、生産品販路の開拓、海外貿易の斡旋及び指導、商品改善の指導、商工に関する参考品の陳列及び貸与、図案の調査、生産品の調整及び指導、産業に関する図書その他刊行物の発行、募集及び展覧などである。
  (『広島県史蹟名勝写真帖』1935より、写真も)                                         *輪奐の美: 建物が巨大で華美な様

 

 引用中に「海外貿易」とあるが1934昭和9年「広島県産業奨励館出張員表」(『産業の広島県』))に記された5人の出張先をみると、当時の日本の一端がうかがえる。

  満州国新京三笠町・新京輸入組合内
  関東州大連市羽衣町・大連輸入組合内
  満州国奉天淀町15番地
  満州国哈爾浜(ハルピン)道裡斜紋街・哈爾浜商品陳列館内
  中華民国上海市灘路25号 日本商工会議所内

 

   聞きしより眺めにあかぬ厳島  見せばやと思ふ雲の上人
                            ――関白秀吉――

 産業奨励館の編集になる『広島県の産業』は、豊臣秀吉の和歌から広島県観光第一の厳島(安芸の宮島)を紹介してから産業の概況を述べている。

 林業:松茸の産額は全国3位(昭和15年)。畜産: 神石牛は古くから和牛の最良種として知られる。農産:米は農地が狭いので県外から移入、酒造米は樺太までも進出。藺(い)草は全国2位で備後藺として有名。畳表は日本一。果物、除虫菊の栽培も盛ん。水産:広島の牡蠣は日本一。イリコの生産、製塩業が盛ん。
 工業:綿織物・人造絹糸およびステーブルファイバー・毛筆・清酒・和洋家具類
 軍需工業:陸軍の広島、海軍の呉と二大軍都を持っている関係で官業工場が多く、民間工業も発達。各種の缶詰・パン類・鑢(やすり)・人造砥石・自動三輪車・削岩機など。

 

 次は1935昭和10年頃の広島の建築物や名所(『広島県史蹟名勝写真帖』より)

 広島県庁・大本営跡(日清戦争の大本営)・広島城址・第五師団司令部・広島招魂社・観古館(浅野家所蔵の古門書・文房具・骨董・刀剣・甲冑などを展示)・大石家の墓(赤穂義士)・賴山陽旧居・広島市庁・広島商工会議所・広島駅・*相生橋・広島控訴院・広島逓信局・広島税務監督局・広島地方専売局・広島中央放送局(JOFK昭和3年開局)・広島病院・日本赤十字社広島支部・武徳殿(大日本武徳会広島支部)・広島工業試験場・広島県醸造試験場・広島文理科大学・広島高等師範学校・広島高等工業学校・広島高等学校・広島女子専門学校・中国新聞社・ 広島測候所・呉鎮守府・呉市庁・呉海軍工廠呉海兵団第一上陸場(呉軍港)・呉海軍航空隊広海軍工廠呉海軍病院・呉商工会議所・音頭瀬戸・清盛塚・海軍兵学校・尾道駅・瀬戸内商船会社・向島船渠・尾道港・福山城址・厳島神社などなど。
   *相生橋: 太田川と元安川(もとやすがわ)の分流点上流にかかるT字型橋。すぐ下流は平和公園原爆ドームが残る。

 広島は海と陸の交通の要衝で軍事機関が目立つ。それは広島を栄えさせたが、戦争の終わりに原子爆弾により一瞬にして市街の大半が壊滅してしまった。爆心地は市街の中心をなす太田川にかかる相生橋、被災戸数約7万、死者26万に達した。被爆後、生存を保ち得た人々も、身体に残る障害、原爆症による死者が今も絶えない。
 広島産業奨励館に限らず、どの建物にも人がさまざまな営みをしていたことを思うと、市街が一瞬で失われたことの恐ろしさがいっそう思いやられる。二度と戦争をしてはいけない。

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