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2015年9月26日 (土)

釜石鉱山鉄道 と 岩手軽便鉄道


       岩手軽便鉄道の一月
                                  (『春と修羅』第3集大正13.14年)

  ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかつている
  河岸の樹がみなまつ白に凍つてゐる
  うしろの河がうららかな火や氷を載せて
  ぼんやり南へすべつてゐる
  よう くるみの木 胡桃の裸樹(ジュグランダー) 鏡を吊し
  よう かはやなぎ 水楊の隊列(サルツクスランダー) 鏡を吊し
  はんのき 赤楊の並木(アリヌスランダー) 鏡鏡鏡鏡をつるし
  からまつ 落葉松の編隊(ラリクスランダー) 鏡を吊し
  高貴(グランド)電柱 驃騎兵の直立(フサランダー) 鏡をつるし
  さはぐるみ 澤胡桃の立棒(ジュグランダー) 鏡をつるし
  桑の木 桑樹の株垣(モルスランダー) 鏡を・・・・・・・・・・・・
  ははは 汽車(こっち)がたうとうななめに列をよこぎつたので
  桑の氷華はふさふさ風にひかつて落ちる
      
   ランダー:ドイツ語で編垣、間垣の用材棒のこと。振り仮名はそれぞれの学名
   フサー:ドイツ語で、胸に金の飾りをつけた軽騎兵のこと

 宮沢賢治:
 https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/04/post-6f54.html

               釜石軽便鉄道

 岩手軽便鉄道は、宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』に登場する鉄道のイメージモデルといわれる。岩手軽便鉄道(本社は花巻町)は、仙人峠という難所で釜石鉱山の鉄道と連絡するが、その釜石軽便鉄道は、1880明治13年、工部省鉱山局所管官営・釜石鉱山に、鉱石輸送用としてイギリス輸入の資材で敷設された。日本で初めての軽便鉄道である。
 釜石鉱山はもと南部藩の経営であったが明治初年いったん廃坑となり、のち盛岡の商人が再興し1874明治7年官営となり、専用鉄道をつくり、合間に公共に供したのである。釜石軽便鉄道には、仙人峠東面の大橋駅と釜石町の西端鈴子駅間を走る4駅があった。鈴子には製鉄所があり釜石港の桟橋まで4kmほどである。
 1882明治15年3月、旅客・貨物の輸送を開始したが、間もなく炭鉱と共に廃線になった。車両や資材の一部は当時官営だった三池炭鉱と、民間資本による阪堺鉄道に転用された。

              岩手軽便鉄道

 ―――岩手県は面積は広いが人口が少く、至る処山岳重畳、深険なる峡谷、広い平野が少なく、気候寒烈なため、人口希薄で部落もまた遠隔している地方なので、道路を開鑿し、殊に高級の交通機関たる鉄道敷設と経営との如きは、他の地方に比しても最も困難なる状態にあるは明白である。
    
 明治初年には北上会社を設立して北上川を利して、盛岡から石巻に通ずる漕運を開き、物資輸出入の円滑をはかった。沿海地方は、三陸汽船会社の定期航路で釜石湾を起点とし、北は宮古港から南は陸前塩釜港に至る各港間の海運に従った。岩手県民はこの陸と海、花巻・釜石間を連絡する鉄道の敷設を願っていたが実現されなかった。が、政府の鉄道政策により私設鉄道の敷設が奨励され資金が集められた。筆頭株主は横山久太郎(釜石製鉄所長)で、宮沢賢治の母方の祖父も株主として出資するなど、株主の大半は沿線住民であった。
 1911明治44年10月、岩手軽便鉄道会社を設立し、1915大正4年11月全線開通の運びとなった(大正2年『上閉伊郡誌』岩手県教育会上閉伊郡部会)。
 本社は宮沢賢治と縁の深い花巻町、のちのJR東日本釜石線に相当する路線である。

 1912大正元年9月、建設工事が両端から開始。
 1913大正2年10月、最初の開業区間が花巻から土沢まで開通。残りの区間の建設工事もかなり進捗していたが8月に集中豪雨で完成した線路などが流失する被害を受け、以後は部分開業を徐々に繰り返す。
 1914大3年4月、終点側の遠野-仙人峠が東線として開通。さらに西線の晴山-岩根橋、東線の鱒沢-遠野が同時に延伸開業。
 1915大正4年7月、東線の柏木平-鱒沢、11月、最後の岩根橋-柏木平が開通して、花巻-仙人峠間が全通した。こうして花巻から仙人峠までが軽便鉄道で結ばれたが、難所の仙人峠手前で終点になっていた。その先、人間は徒歩か駕籠に揺られて移動した。荷物は岩手軽便鉄道が、貨物用の索道(空中ケーブル)を建設した。ともかく、これにより徒歩連絡をはさみながらも花巻から釜石までの鉄道連絡ができるようになった。この索道では貨物・郵便物・新聞などが輸送された。

 その後、岩手軽便鉄道の取締役であった瀬川弥右衛門が貴族院議員になり、仙人峠の連絡鉄道の国鉄による建設を請願、岩手軽便鉄道の国有化の運動も始められた。加えて、国有化に向けた政界工作もあり、帝国議会で花巻-釜石間の鉄道が予定線となった。1929昭和4年建設線へ昇格、帝国議会で岩手軽便鉄道の国有化が決定。 1936昭和11年8月、国鉄釜石線となった。
 2015年秋、JRのカタログをみていたら、<SL銀河>C58・239を復元し花巻駅~釜石間を運転、宮沢賢治の世界観や空気感、生きた時代を共有できる空間となっています―――というのがあった。どうやら、鉄道は人や物を運ぶだけでなく、昔を今に運ぶらしい。

               **********

 <花巻空襲の航空写真発見> (毎日新聞2015.9.25夕刊)

  ラグビーのワールドカップ、日本の活躍から「新日鉄釜石」が思い浮かび、釜石鉱山鉄道から岩手軽便鉄道へと至り、本社があった花巻にも親しみを感じた。そうしたとき、「花巻空襲写真」の記事を目にした。長い時間をかけて築いたものが一瞬にして破壊される現場が写っている。記事によれば、花巻市街はもちろん北上市の岩手陸軍飛行場が爆撃されたという。
 ほかにも、広島・呉港で停泊中の船艦「伊勢」、大阪・伊丹飛行場、長野・旧陸軍上田飛行場への爆撃写真もあるといい、「体験者が少なくなる中、戦災を伝える貴重な史料」だと伝えている。

 

 

 

 

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