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2015年9月19日 (土)

宮城県の自由民権家、大立目謙吾

   仙台藩士の戊辰戦後、明治維新、ハリストス正教

 仙台藩士、大立目謙吾(おおだつめけんご)は1848嘉永元年生まれ、20歳で戊辰戦争にあう。
 仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主となり新政府軍と交戦するが利あらず降伏。仙台藩主伊達慶邦は*遠藤文七郎らを遣わして、相馬口総督府(細川の陣)に降伏を伝え、仙台城を開く。1868慶応4年10月15日、入城授受の式を行い「開城の上は土地人民を挙げて天朝に献じ」 仙台藩は28万石に減封、名取・宮城・黒川・加美・玉造・志田の6郡支配となる。
 これより前の9月4日、まだ戊辰戦争のさなか明治元年と改元された。
  *遠藤文七郎(允信): https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/02/post-4338.html

 1869明治2年、版籍奉還が行われ、仙台藩士は家録を奉還、金禄及び授産資金の交付を申請。
 これより以前から、幕府軍の脱兵と結び再挙を謀ろうとする浪士たちが函館に集まっていた。
 函館のロシア領事館付司祭ニコライはこうした仙台藩脱藩の浪士たちと知り合う。未だキリスト教の布教が許されなかったのでロシア語を教え、彼らから日本語を習った。そうした一人、沢辺琢磨はいつしかニコライに心酔しハリストス正教に入信。
 仙台藩士、金成善右衛門と新井常之進は憂国の士として名を馳せている函館の沢辺琢磨を訪ねた。すると、沢辺が「国家の革新は人心の改造よりせざる可らず。人心の改造は宗教の改革よりせざるべからず。宗教の改革はハリストス教を以てせざるべから」と説くので、二人は意外の感に打たれた。しかし、ニコライに会って話を聴き心服し、仙台に戻ると正教のことやニコライのことを知人や同士に話した。
 これに小野荘五郎・笹川定吉・大立目謙吾らが啓蒙され、三人は未だ戊辰最後の戦い、箱館戦争の戦禍も生々しい函館に赴いた。
 1870明治明治3年5月、大立目ら三人は箱館戦争で焼け出され仮住まいする沢辺の家に泊まって、ニコライにロシア語を学んだ。
 1871明治4年、大立目はハリストス正教に入信(洗礼名ペートル)。帰郷して県内を布教する。
 1872明治5年、ハリストス正教はロシア人司祭ニコライと仙台藩士らの入信によって宮城県下に広まり、教徒が逮捕される弾圧事件もおきたが、県下に幾つもの教会ができ、東京神田のニコライ堂建設に尽力した教徒も多い。「五日市憲法草案」(私擬憲法)の起草者となった千葉卓三郎もハリストス教徒の経歴をもつ。 

 

     仙台の自由民権運動

 

 1877明治10年9月、大立目謙吾は西南戦争に出征、川辺分遣小隊長をつとめた。このとき仙台鎮台(のち第二師団)に入隊して出征したか、応募して九州に赴いたかは不明。西南戦争には旧会津藩士など東北から多くが参戦している。西南戦争後、言論の力が認識され全国で言論活動がさかんになる。
 1878明治11年10月、宮城県初の自由民権結社である「鶴鳴(かくめい)」(社長箕浦勝人)が結成された。
  鶴鳴社は、全国的な組織で国会開設運動を進めようとする愛国社との同盟可否問題をめぐり、同盟を推進する派と、独自路線を主張する派に分裂する。
 1879明治12年、大立目は鶴鳴社と分かれて独自路線を主張する「進取社」を結成、幹事・社長となり自由民権運動に参加、憲法見込案作成委員もつとめた。仙台における自由民権運動は複雑な関係となり進取社を御用党とささやく者もあった。

 

 また、大立目は布教のかたわら同志とともに商社「広通社」を興して商業に従事する。広通社は、登米郡長の半田卯内・西条佐助ら旧士族や、大立目らハリストス教会信者が中心となって設立。蒸気船「広通丸」を用いて、米や生糸、海産物などの物資を横浜などで売買して飛躍的に成長した。 軌道に乗った矢先、広通社社員の一人が米相場に手を出して失敗、商社は廃業となったが製糸場は県や地域の協力で、「横山製糸会社」として生まれ変わり経営を続けた。

 

     東北有志会・東北七州自由党

 

 第3回愛国社大会が大阪で開かれるに先だち、河野広中は土佐に赴き立志社との緊密な連携を図るとともに、関東・北陸・東北各地を運動して回り東北の連合につとめた。
 1880明治13年2月、仙台で東北連合会が開かれる。東北地方の団結をはかり、自由民権運動の発達にと東北有志会が組織された。

  当時の「朝野新聞」記事から
 ――― 東北七州懇談会(東北連合会): 国会開設請願につき奥羽地方にては人心大いに奮い、この頃になると国会開設は一種の流行病の如く拡がったのであるが、宮城県では仙台に進取社が設立され、檄文を発したと『近時評論』(1880.3.20)にあったが、こえて4.28の同紙には、仙台における政談演説ますます盛んにして、これに従事する本立・進取・鶴鳴・断金・などなどの何れも2~300名の社員を擁し、就中、進取社のごとき既に2千名に及んでおり、近々東北を一丸とせる一大結社の計画があると報ぜられ・・・・・・

 

 明治14年10月、自由党結成(総理・板垣退助)。国会期成同盟を中核とし、宮城県からは大立目謙吾・二宮景輔・高橋博吉自由党名簿に名を連ねた。
 同年3月4日、東北政社合同し仙台に東北有志大会を開く、河野広中議長。東北有志大会東北自由党と合し東北七州自由党となる。
 1882明治15年、大立目、東北七州自由党の結成に加わる。
   同年4月<日本初の県債発行計画>: 詳細後述
   同年12月、福島事件。福島県令三島通庸の農民の道路拡張工事強制動員に対し河野ら自由党員が反対運動を展開したことによりおきた自由党員・農民弾圧事件。

 

     大立目謙吾郡長歴任
 
 
1886明治19年、宮城県(知事・松平正直)農商務課長(勧業課長)。
 1888明治21年4月22日、東北有志の大会が開かれたのを導火線として、後藤の大同団結運動は全国を席巻、大立目もこれに呼応す。
 1890明治23年5月2日、大立目、宮城県庁より宮城郡長に転任。
     郡長: 府知事・県令(のち県知事)の監督のもとで郡内に法律・命令を施行し、事務を総理する官職。郡内の町村戸長を監督し、郡会議長として郡会の運営を担当。俸給は地方税から支弁。

 1892明治25年11月4日、黒川加美郡長
 1894明治27年、郡制施行により、初代加美郡長
 1901明治34年11月、本吉郡長
 1903明治36~明治39年2月28日、遠田郡長
 1910明治43年、勲4等に叙される。
   ?年、県会議員。
 1920大正9年9月4日、没。73歳。

 

   参考:『宮城郡誌』1928宮城郡教育会 /  『自由民権・憲法発布』1939白揚社/ 『函館ハリストス正教会史』/ 『明治時代史辞典』2012吉川弘文館/ 『宮城県の歴史散歩』2007山川出版社

 

     **********

 

      <日本初の県債発行計画

 「起業県債発行之議ヲ県会ニ付セラレサルヲ請フノ嘆願書」 [M15-0101]
 1881明治14年、宮城県は野蒜港への輸送路整備を目的とする六大工事計画に着手、その工費80万円を「県債」によって集めようと考えた。当時水陸運輸の整備が急務となっていたが、地方のあらゆる事業を国庫に頼ることはできず、かと言って地方税にも限度があった。そこで同15年1月、県会議長増田繁幸が中心となり起業県債の発行を建議したのである。ところが、この時不景気の兆候が見え始めていたこともあり、県債計画が明らかになるとその是非論が沸き起こった。そして同年4月、大立目謙吾ら仙台区の住民10名が連名で県令(知事)松平正直に提出したものが「起業県債発行之議ヲ県会ニ付セラレサルヲ請フノ嘆願書」である。

 この嘆願書では,財政制度が進んでいるイギリスの蔵相(後に首相)グラッドストンや経済学者アダム・スミスらが公債に否定的な見解を述べていることを指摘し,さらに“県債の六害”をあげて県債に反対している。“県債の六害”とは
1.六大工事は急務ではない  2.県債の償還に20年以上を要するが、その間に凶作や事変があるかもしれない  3.県域の変更があった場合、後から宮城県に編入された者が承服しない  4.米価が下がり,農民が困窮している  5.地方税やその他の出費が増えている  6.県債発行は,県会の権限を超えているという内容であった。
 そして県債発行は、「我邦未曾有之事」で県民の多くはよく理解していない。そのような県民を20年に渡って「負債者」とするのは忍びないとしてこの議案を県会にかけないよう訴えている。この後、松平県令は県民の長期に渡る負担を不安視したためか、県会にかけないことを決断、日本初となる県債発行は実施されなかった(「宮城県公文書館だより 第10号」)。

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