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2015年9月12日 (土)

病理学(脚気)と和歌と、三浦守治 (福島県) 

 少し前に、「会津人柴五郎と竹橋」を紹介したが、今度は柴五郎のお孫さんの縁で歌集『心の花』1400記念号(竹柏会2015年6月)を頂いた。1400はすごいが、はじめて見るので、『歌壇風聞記』1937を見てみると、<『心の花』はどうなる>が載っていた。

 ――― 歌壇では一番の老舗である。主催者も二世三世でなく、はじめから佐佐木信綱であり、雑誌も改題などせぬ、はじめからの『心の花』である。会名「竹柏会」は先代弘綱(信綱の父、国文学者)の屋号竹柏園に因む・・・・・・ 伝統をもった雑誌で、最初の宣言にも「如何なる流派を問はず」と謂っており、今(昭和12年)でも、信綱はやっぱり「おのがじし」を口にし、中正穏健をモットウとしているわけだが、長い間には、おのづから消長変化があり~~

 柴五郎の孫、西原照子は祖父五郎のすすめで佐佐木信綱に和歌を学び、歌集『武蔵野』を出版している。『心の花』記念号「先輩歌人名鑑」の紹介写真を見て20数年前のまだ若い照子さんの笑顔を思い出した。「名鑑」には明治・大正以来の著名人、歴史好きには興味のある人物がズラリ。その一部をあげると、 
 上田敏・大塚楠緒子・落合直文・勝海舟・金子薫園・木下利玄・九条武子・近衛忠煕・斉藤劉・佐佐木信綱・下村海南(宏)・西村照子・長谷川時雨・村岡花子・森鷗外・柳原白蓮・与謝野鉄幹などなど。
 各々人物の短い紹介と三首の歌が添えられている。そのなかの一人で森鷗外の同級生、三浦守治(みうらもりはる)に注目。

                 三浦守治


 ―――(三浦守治)医学の道を歩む自己を平明にうたい、「超俗の赴き」「ますらをぶりの気迫」(信綱)、「士太夫の精神」(石川一成)などの評価を受ける(「心の花」大野道夫)。
 人言は、心にかけず、荒布を、ゆかたにたちて、我ぞ着にける、  
 折らばやと、ひきためわたる、梅が枝を、放ちてしばし、まもりつるかな、
 老いて世を、さとりがま志く、ふる吾の、昔は髭も、何もなかりき、

 1857安政4年5月、磐城国岡村郡平沢で生れる。父は三春藩士・村田七郎、二男。
 1867慶応3年5月、三春善光寺住職・井上知完について学ぶ。
 1869明治2年、三春講所に入り、熊田嘉善・山地純一・佐久間儀門などに漢籍を学ぶ。
 1872明治5年、16歳で東京の*岡鹿門の塾に入り、漢籍を専攻。
  *岡鹿門: https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/05/post-de84.html

 1873明治6年、17歳で東京医学校(大学東校)入学。森林太郎(鷗外)も入学するが、年齢不足のため1860万延元年生まれとした(『新潮日本文学アルバム・森鷗外』1994)。
 1881明治14年、医学校卒業、医学士となる。三浦義純の養子となる。

   <東大新医博士成績順名簿>によると、24歳の三浦は1番、最年少19歳の鷗外は8番、ほかに鷗外の友人、賀古鶴所の名もある。
 1882明治15年、ドイツの大学に留学、ユーリアス・コンハイムニ教授について病理学および病理解剖学を研究。次いでベルリン大学に転じドクトル・ウイルヒョーに学びドクトルの学位を得る。
 1884明治17年、留学満期となるも私費でなお滞在、学問を続けた。この年、陸軍2等軍医森林太郎が陸軍衛生取調の為ドイツ留学。二人はドイツのどこかで邂逅しただろう。

 1887明治20年3月、ドイツで博士となり帰朝。東京帝国大学病理学の専任教授となる。

 ――― それまで病理学は教室もなく、ただ内科の教授が臨床科講義の際、病理総論および病理解剖を併せ教授するくらいで、病屍あれば自身で解剖し或いは助手をして解剖せしめるに過ぎなかった。三浦がするまで、外国人解剖学教授ヂツセが病理学を担任し専任教授がなかったのである。三浦は脚気病の研究に力を用い、研究結果を報告する。
 当時東京医家大学の各科教授は、いすれも学識名望ともに一世に卓出し、医界における権威として尊敬せられたこと今日の比ではなかった (『明治大正日本医学史』田中裕吉1927東京医事新誌局)。

    脚気の原因究明論争

 わが国特有の国民病ともいわれた脚気。その発生と原因について今日では、ビタミンの発見など研究の結果、栄養障害節が確立している。が、以前は伝染病説、中毒説などが盛んに論議された。海軍軍医・高木兼寛は、水兵の米食をやめ右飯食に改めた結果、脚気患者が著しく減った事実から脚気の原因を米食に帰し、栄養障害が原因だとの自説を発表した。
 これに反して緒方正規は脚気の原因は、小腸内に発育する特殊の細菌が酸を産生するからアルカリ性の薬剤を与えて血液の酸性を中和しなければならないと発表した。北里柴三郎は医学雑誌に緒方の脚気病原説を取るに足らないと論駮した。
 脚気を一種の伝染病だとする学者は緒方以外にもあって、東大内科医師ベルツも臨床的見地から脚気が瘴気性伝染病だとした。

 1889明治22年、東大病理学教授・三浦守治は脚気における末梢神経の病理的変化および臨床的症状から推論して、中毒性疾患なりとし、さらに食料の比較統計上よりその原因を青魚中毒とした。その後、この説は三浦の門下・佐多愛彦が北海道に出張して青魚を食べない道民も脚気に罹る者が多いことから根拠を失ってしまった。
 1897明治30年に至るまで伝染説と中毒説が対立していた。当時はビタミンを思いついた学者は一人もなくて、脚気がビタミンBの不足欠乏に起因すると明白になったのは大正時代に入ってからである(『明治大正日本医学史』)。

 余談: 柴五郎も陸軍幼年学校時代に竹橋騒動が起きたとき、現場に駆けつけその場で昏倒し2週間の入院治療。脚気で歩けなくなったのだ。日露戦争では脚気で歩けなくなった陸軍兵士が多かったという話もある。

 1891明治24年8月、三浦守治・森林太郎(鷗外)・北里柴三郎・中浜東一郎ら21人医学博士を授与される。
 1898明治31年「心の花」入会
 1915大正5年、歌集『移岳集』刊行。
 1916大正6年死去。59歳。
   人となり謹直、人に接する温良恭謙いやしくも才を衒い能に誇るの風なし。而して日に其身を三省し以て行いを修むと、徳望高き所以なり。ああ当世軽薄に流れ言語に絶えざるものあり。宜しく君の修業に鑑み、自省する所なくして可ならんや(『日本博士全伝』1892博文館)。

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