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2015年10月24日 (土)

1900年パリ万博・金賞「老夫像」、長沼守敬 (岩手県/千葉県)

 2015年ミラノ万博で日本館が人気とか。日本の万博参加は、1867慶応3年のパリ万国博覧会がはじめてで、幕府・薩摩藩・鍋島藩がそれぞれ日本国を名乗って参加した。そのとき将軍慶喜の名代として参加した徳川昭武は、幕府が崩壊して急遽帰国した。その万博殿様昭武が帰国した明治維新の時から33年、日本は驚くばかりのスピードで西欧化、近代化を推し進め変化した。
 欧風化は軍事・工業ばかりでなく芸術の世界にも及び、再度開かれたパリ万国博覧会で、日本人の長沼守敬(ながぬまもりよし)が、洋風彫刻で金賞を受賞した。この1900明治33年は国自体も海外進出、日清戦争に勝利した日本は欧米列強8カ国に仲間入り、清国北京において義和団と戦い勝利に導いた。
 ところで、どの分野で活躍した明治人でも生まれは江戸時代、身につけた教養は昔ながらのものだ。その人々が見たこともない新奇な物に出会った時、それが器械や技術ならすぐに慣れそうだ。でも、文学や美術はどうか、目に映っても馴染むには時間がかかりそう。  技法が分かっても作品の背景にある文化や習慣、感性の違いを知らないと心に沁みてこないから。たとえば、それらをどの様に感得して作品に活かしたのか。まだ海外渡航者が少ない明治前期、遠くイタリアで学んだ洋風彫刻家・長沼守敬をみてみよう。

 
Photo       長沼 守敬 (ながぬまもりよし)

 1857安政4年9月23日(1857.11.9)陸奥国一関(陸中国西磐井郡一の関)藩士・長沼雄太郎の三男として生まれる。
 明治維新当時、水戸の高橋善吉(号・美勝)、*内藤耻叟が難を避けて一の関に潜んでいた。二人は彫金(水戸彫)が巧で、11歳の守敬は学業の余暇、朝夕二人の家を訪れては彫金するのを飽かず眺めていた。高橋と内藤はそんな守敬に彫金を習うよう勧めた。ところが、まもなく二人は捕らえられ水戸に送られた。守敬は二人が残した用具で彫金を独習した。
   *内藤耻叟:ないとうちそう。明治維新後、群馬県の中学校長を経て陸軍の学校・東大・斯文会などで歴史学を講じた。教えは水戸学による尊皇史観による
 1873明治6年、北海道札幌農学校に入学するが、まもなく函館に移った。
 1874明治7年、上京して中村敬宇の同人社に入塾。
 1875明治8年、元印刷局の御雇外国人の銅版彫刻家*キヨッソーネにイタリア語を学ぶ。また、イタリア公使フエー伯爵の援助を得て横浜港に停泊中の軍艦ウエットルピサニ号に乗りこみ、イタリア語を習得してイタリア公使館通弁(通訳)見習となった。
   *キヨッソーネ: 政府の招きで来日。印刷機材を輸入、重要印刷物の製版・印刷を指導、紙幣寮で有価証券類の図案と製版に従事した。明治天皇の肖像画を描いた。

 1876明治9年、工部省御雇外国人*ラグーザの通訳となり、彫金を研究。
   *ラグーザ: 政府に招かれ、工部美術学校で日本で初めて西洋彫刻法を教えたが、同校の授業中止により帰国。洋画家・清原たまと結婚(『ラグーザお玉』木村毅著)。

 1881明治14年3月、イタリア公使バルボラーニ伯爵が帰国するのに従いイタリア留学ベネツア王立美術学校で新古典主義的な彫刻を学んだ。また当地の高等商業学校日本語教授の嘱託となり学資を得ることができた。1885明治18年、優秀な成績で卒業。
 1887明治20年、イタリア美術博覧会に「海岸に於て」児童が貝を拾う等身像を出品して入選。八月、帰国。この年、岡倉天心らの尽力で東京美術学校(戦後、東京藝術大学美術学部)が設立される。

 1888明治21年、東京美術学校に塑造科が開設され初代教授に就任、我が国における洋風彫塑の普及に尽力したがまもなく辞めて帝室博物館に入る。第3回*内国勧業博覧会の事務嘱託を受ける。
   *内国勧業博覧会: 殖産興業政策の一環として、内務卿・大久保利通が主唱した内国物産の品評博覧会。当初は工芸品中心であったが、のち機械類が主流となる。

 1889明治22年、*明治美術会結成に参加。
    *明治美術会: 浅井忠・小山正太郎らによって創立された日本初の洋画団体。
 1891明治24年、陸軍砲工学校外国語教授を嘱託される。
 1892明治25年、毛利公爵家一族の銅像模型を製作。アメリカシカゴ博覧会審査官。
 1895明治28年、第4回内国勧業博覧会審査官となる。
 1897明治30年、日本美術協会からイタリア万国博覧会への出品事務を託され渡欧、イタリア・フランス・ドイツ・オーストリアを巡歴して帰国。
 1898明治31年、三たび東京美術学校教授となり、工部美術学校いらい途絶えていた本格的な彫塑を後進に伝える。
 1899明治32年、東京美術学校の塑像教育開始に伴い教授に就任したが、翌年辞職。

 1900明治33年、フランスパリ万国博覧会審査官となる。「老夫」の頭像を出品して金牌を受賞。写実的で親密な作風で洋風彫刻の草分けの一人となった。

 ――― モデルは作者の近所に住んでいた植木屋のお爺さんと伝えられる。素直な自然観察に基づく堅実で柔軟な肉付けにより、老人の顔に刻まれた皺、頭に巻いた布の質感までもが迫真的に表現されており、作者の卓越した技量が存分に発揮されている。(当館所蔵作品は東京芸術大学所蔵の原作品に基づく複製鋳造)
         (岩手県立美術館 http://www.ima.or.jp/ )

 1903明治36年当時の住い、東京市小石川区表町109番地
 長沼守敬の作品は「岩倉具視像」「木戸孝允像」などのほかに船越男爵・鍋島侯・土方伯爵・毛利公爵・近衛公爵・水戸侯爵などで上層の人物が多いが、「老夫」は庶民である。栄華を誇る人物と庶民の老夫、作者の製作意欲はどちらに傾いていただろうか。頼まれて彫る、自由に作りたいものを彫る、そんな葛藤があったのかどうか、
 1914大正3年、突然、彫刻界から引退、房州飯山町(千葉県館山市)に隠棲する。
 1936昭和11年、「現代美術の揺籃時代」を高村光太郎の編による談話を発表。高村光太郎の父、高村光雲は東京美術学校教授で明治を代表する彫刻家である。
 1942昭和17年7月18日没。86歳。

  
 守敬製作の像は戦時中の金属供出で失われたものがあるが、
―――館山で制作された守敬自身の胸像は岩手県立博物館で常設展示されている。
  長沼邸は、館山市立博物館本館近くに現存し、今なお彼の彫刻道具のほか、原敬をはじめ、森鴎外、黒田清輝、高村光太郎の手紙など、彼の交友の広さを物語る貴重な資料が、東京に住む子孫に、大切に伝えられているようです。
     (安房文化遺産フォーラム  http://bunka-isan.awa.jp/About/item.htm?iid=414)

   参考: 『明治時代史大辞典』吉川弘文館/ 『コンサイス日本人名辞典』三省堂/ 『第五回内国勧業博覧会審査官列伝. 前編』1903金港堂

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