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2015年10月17日 (土)

気骨に富み詩才卓抜、国分青厓 (宮城県)  

     唯だ利を射る         青厓 国分高胤

  操觚(そうこ文筆業者) 弊あり 幾時か除く
    著述 僅かに成って 魯魚(誤植)多し
  勢ふに乗じて 奸商 唯利を射る
  機に投ずる猾士(ずるい男) 誉れを求めんと欲す
  人情 原(もと)好む 新奇の事
  世俗 争ひ伝ふ 猥褻の書
  名教 更に毫末の補ひ無し
  汗牛充棟 遂に如何

 「唯射利」は作者、国分青厓(こくぶせいがい)が不良図書の氾濫、悪徳出版社の売らんかな主義に痛棒を加えたもので、その意味は次ぎである(参照、角川『日本漢詩鑑賞辞典』(猪口篤志)。

 ――― 文筆の弊害はいつになったら除かれるのだろう。著述のやっとできたと見れば誤植だらけ、組成乱造品ばかりだ。というのも、時流に乗って悪徳商人はただもうけることばかり考えるし、ずる賢い男は、これを機会と著者の名誉を獲得しようとするからである。世俗は争ってエロ本を買いあさる。道徳教育などは何の足しにもならない。こうして悪書はどんどん増えて、汗牛充棟の有様となる。この成り行きを一体どうしたらよいのだ。

 筆者は、漢詩・漢文は全くダメ、李白・杜甫、史記・三国志ぐらいしか浮かばない。しかし、明治人には普通のことらしく、旅に酒に興にのると漢詩を作った。夏目漱石の漢詩は有名、石川啄木も白楽天をヒントに短歌を作ったこともあるそう。日露戦争出征の乃木将軍「金州城下作」は知る人ぞ知る。また、東海散士『佳人之奇遇』挿入の詩は多くの明治青年が愛唱、物理学者の寺田寅彦も、自分も愛唱したと日記に綴っている。それほど、漢詩、漢文は昔の日本人共通の教養だったのだ。しかし、今は、勉強しないと読むだけでも難しい。したがって漢詩人も知らない。でも、詩人の名と同時代の人物をあげれば、少しは時代の空気が感じられるかなと思う。

 

 ところで『佳人之奇遇』挿入、人気の詩は国分青厓が代作したとも言われる。散士(柴四朗)と青厓は一緒にいた時期があり、ありそうな話だ。二人は山東直砥(一郎)が主宰した北門社で、山東の同志・友人の横尾東作から短い期間であるが英語を教わった。
 旧会津藩士・四朗と旧仙台藩士・青厓はともに戊辰の戦に敗れた側、新しい学問を身につけ世に出たいとの願望は同じ。物語を綴る散士の意をくみ、詩を創作し吟ずる青厓、二青年の熱い感情は想像できる。なお、横尾東作は以前取り上げたので、よければ次を。
 “戊辰戦争スネルと横尾東作(仙台藩士)”
 https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/11/post-58cc.html

 

 
               国分青厓

Photo 1857安政4年5月5日、宮城県遠田郡小塩村(田尻町小塩)、仙台藩士・盛久の家に生まれる。名は高胤、字は子美、青厓または太白山人と号す。幼名は横沢千賀之介、のち遠祖の国分姓に改めた。

 藩校・養賢堂の教授・国分平蔵に漢籍、落合直亮(落合直文の養父)に国学を学ぶ。
 1876明治9年、上京して司法省法学校第一期生となる。同期生は原敬陸羯南(くがかつなん)、福本日南ら。
 1879明治12年、国分は、薩摩藩出身の植村校長排斥運動の首謀者として原敬や陸羯南とともに退学させられた。俗に言う「学校賄征伐事件」で、寄宿舎の食べ物が貧弱なので学生たちがしばしば抗議。ある夜、勝手に食堂に集まってランプを灯して食べ騒いだ。関わった生徒一同は禁足となり保証人預けとなる。保証人の父兄らは生徒に帰校するよう言ったが、生徒らは納得しなかった。
 原敬は騒ぎに参加していなかったが生徒代表として校長、ついで大木司法卿にまで陳情した。しかし、生徒側の敗北となり、数人が退学、原敬も同罪で官費生から浪人生となった。
 後年、首相となった原敬の邸で、放逐と廃学の仲間が原邸で会合、国分青厓も参加して近況を語り昔を懐かしんだ。
 さて、退学した国分は「大阪朝野新聞」記者をしやがて陸羯南の「日本」新聞に移る。

 1889明治22年、陸羯南「日本」に入社するや評林欄に漢詩によって時事を風刺、青厓の「評林体」の詩は一躍有名になった。評林欄の内容は、政府、政界の腐敗や退廃を攻撃して国民の不幸を訴える一方、熱烈な忠君愛国的なこともあり、ことに日清・日露戦争では好戦意識をあおりたてた。
 1890明治23年、本多種竹、大江敬香とはかり森槐南(もりかいなん)を加えて星社を興した。詩「風雨華厳の瀑を観る歌」は副島蒼海(種臣・政治家)に激賞された。しかしその後、森槐南とは詩風、意見が合わず袂を分かち、一時詩壇から遠ざかる。
 1894明治27年、日清戦争がおこると陸軍大将山県有朋に従って清国に7ヶ月ほど滞在。その間、家族に手紙をださなかったばかりか、帰国しても新橋の宿・川長に一泊。翌日は銀座に出て、家族の心配をよそに日暮れにやっと帰宅という有様だった。大正に入ってから、田辺碧堂らに請われる形で詩壇に復帰する。

 1923大正12年、大東文化学院創立と共に招かれて教授となり漢詩文を講じた。
   学校は衆議院・貴族院の共賛により東京市麹町に建設。授業料の徴収は無し。卒業後、本科は漢文科中等教員無試験検定の資格、高等科は高等教員無試験検定の資格が得られた。
 かたわら、雅文会など様々な漢詩結社の指導にあたり、風雅の鼓吹に努め、雑誌『昭和詩文』を主宰するなど精力的に活動した。その詩は、「芳野懐古」などにみられるように国士的気風に富む。 「芳野懐古」は後醍醐天皇陵に参拝した折の作であるが、同様の「吉野に遊び南朝の古を懐う」といった題材は好まれ、「吉野三絶」などがある。
 1933昭和8年、土屋久泰(大東文化学院幹事)らと中国に旅行し、山海関に至り万里の長城に上がり大平原を眺望。
 1937昭和12年、漢詩界を代表して帝国芸術院会員に推される。
 1944昭和19年3月5日、病で死去。88歳。
  人となり、気骨に富み、詩才卓抜、作品の富める事わが国古今第一といえるが、詩集は『詩薫狐』が生前唯一のもの。没後、木下彪編集による『青厓詩存』二冊が刊行されたが、明治期の詩の多くは散逸している。

 

参考:  『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/  『日南集』福本日南1911東亜堂/  『最新官費貸費学校入学案内』受験研究者編輯部編1931白永社 
 

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