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2015年10月 3日 (土)

大正9年の国勢調査 と 統計学者・杉亨二

 今年2015年は国勢調査 第20回、インターネットでの回答も可能となった。折しも、否応なくマイナンバーの通知が届くことになっている。何だか見えない糸で絡めとられる気分だが、孫の世代はスマホと同じく、マイナンバーが日常の当り前になりそう。
 国勢調査は1920大正9年10月1日、第一回調査が実施された。以後10年毎とその中間、西暦年数の下一桁が〇の年に大規模調査(本調査)、五の年に簡易調査が行われている。第一回国政調査が実施された日は全国的な荒天だった。たまたま今年の調査日も、猛烈低気圧による暴風雨が全国的に吹き荒れた。

    1920大正9年10月1日、第一回国勢調査

【総人口7698万8379人、内地人口5596万3053人、外地人口2012万5326人】
 “外地人口”に一瞬ウン? そう、日本が領有していたカラフト・台湾・朝鮮のことだ。昭和になると満州・南洋が加わる。植民地を獲得して拡がりすぎた日本は遠くなったような、そうでもないような・・・・・・ともかく、世界第一次大戦にも勝利し一等国を目指したていた時の初国勢調査、する側される側、どんなだったろう。
 近代デジタルライブラリーには、800を超す国勢調査関係本や報告類、国政調査員を褒賞する写真帖・記念帖に名簿もある。調査員は地方の名士を選んだらしい。

 「国勢調査に混じらぬ人は死んだお方か影法師」
 「この調査に洩れては国民の恥です」
これは日本で初めて国勢調査が実施されたとき宣伝のため用いられた標語であるが、ほかに歌も作られた。

 ――― 調査の事柄は誰の前で言っても差し支えない事柄でありますから正直に正確に申し出でて貰いたい。噛んで含めるように説き廻ったが、それでも未だ十分でないので、歌を作って謡い聴かせた。その一つに
    ゆふべ来られた花嫁さまも 籍になくとも妻と書く

 ――― 調査するという定日には、なるべく遠方へ旅行しないように、もしやむを得ず旅行するならばその旨を届けるように、その調査は旅行先でも親類でも何処でも構わず・・・・・・今まで日陰者の取扱を受けて役場の帳簿に載っていなかった内縁の妻・・・・・・長きは10年も15年も内縁の妻で済ませてきた人達の戸籍が、急に天下晴れての本妻に据わるという訳だ。今迄の私生児が立派に庶子と認定されたり、又は俄か拵えの結婚届が戸籍係の前に山と積まれるようになった。
                (『面白い日本歴史のお話』中村徳五郎1922石塚松雲堂)   
 (引用文に今では使わない言葉があるが、時代を写すとしてそのまま引用)

 国勢調査は、1902明治35年すでに法律化されていたが、すぐ実施されなかったのは、日露戦争の戦費調達のため無期延期となったからである。また、「国勢調査に関する法律」が整うまで長い時間がかかったが、早くからその必要性を説いて止まなかったのが杉亨二(すぎ こうじ)である。自叙伝を中心に生涯をみてみる。

       杉 亨二

 1828文政11年 長崎の唐人屋敷の近くで生れる。幼名、純道。
 早く両親を喪い祖父・杉敬輔がいたが貧しかった。祖父は医師で少し算術を教えてい、その弟子たちが杉の面倒をみてくれた。
 天保の飢饉のときは、飢え死にする者があって子ども心にも恐ろしかった。大阪では大塩平耐えるしかなかった。
 上野時計店では時計だけでなく西洋の細工物を作っていたこともあり、大阪の緒方洪庵と懇意で、緒方の弟子たちが上野家に寄寓していた。杉少年は、彼らの用足しをしてやる代わりに夜間に論語や孟子の素読をしてもらった。
 やがて緒方と懇意の村田徹斉が大村(長崎県)に帰って医者をするから、手伝えば学問をさせるというので大村へついていった。しかし、働くばかりで学問ができず4年ほどしてやめて、大阪の緒方洪庵の塾に入った。所が学資がなく夜は町に出て按摩をするなどがんばったが脚気になり緒方塾をやめた。行き所がなく再び大村藩の村田徹斉の所に戻り手伝ううち村田が江戸詰になった。それで供をして江戸に出、いろいろツテを頼り写本、翻訳の手伝いをするなどして学資を貯めると、杉田玄白の孫・杉田成卿の塾に入った。ここでよく学ぶことができ、翻訳の力もつけた。

 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが来航して大騒ぎ。この後、武蔵国(おし)の奥平氏に仕え、月二両と家を与えられ蘭学を教授したが不快なことがあってやめ、そのころ出会った勝海舟の世話になる。
 杉はせっかく職についても自分の志や考えと違うと辞めてしまい新たな道を探す。勝海舟の元に行ったのも勝に会い、自分はこれこれの人間だと訴えて置いてもらえた。他にもこうした話はあり、当時の青年は刻苦勉励よくがんばるが、それを受け入れ後進を育てる懐の深い大きい人間がいたのだ。

 1860万延元年、幕府の蕃書調所に出仕、32歳。ここでさまざまな欧米の書籍を読み、統計書を知り驚く。そして日本にも必要であることを痛感、統計の勉強を志した。

 1868慶応4年、徳川家は駿河に移住。幕府に出仕していた杉も静岡に移住。
 1869明治2年、戊辰戦争終結。静岡地方で自ら街頭に出て統計調査し「政表」(統計表)をつくる。静岡では清水次郎長に開墾を勧めたり、沼津兵学校でフランス語を教えた。

 1870明治3年7月、明治政府に出仕。「奴隷廃止・四民互いに婚姻を許すこと・土下座を廃すること」を上申。
 1871明治4年、政表の取調を命ぜられ、翌5年わが国最初の統計年鑑「辛未政表」を編纂。
 1873明治6年、国勢調査の必要(一つの「国」全域にわたるセンサスの実施)を上申

 1879明治12年、山梨県でわが国最初の近代的な人口調査を実施。
 1881明治14年、統計院設置。杉は山梨県「甲斐国人別調」を作成。
 1883明治16年、陸軍用地を借り共立統計学校を新築して生徒を募集、2年で廃校。
 1885明治18年12月、統計院廃止となり統計局となり辞める。57歳。
 1903明治36年、国勢調査準備委員会が設置され、委員となる。
 1910明治43年5月27日、国勢調査準備委員会委員
 1913大正2年6月13日、国勢調査準備委員会官制廃止、
 1917大正6年、没。89歳。
   
   参考:  『杉亨二自叙伝』1918杉八郎/ 『国勢調査 日本社会の百年』佐藤正広2015岩波現代全書/ 『コンサイス日本人名事典』三省堂/ 『近代日本総合年表』岩波書店/  

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