出発点は新聞売り子・古本から星製薬創業、星一(福島県)
江戸から明治になると士農工商の身分制度がくずれ、誰にも道が開けた感があるが、やはり財産も縁故も無い者には厳しい。せめて学問知識を身につけたいと意欲はあっても貧しいと高等の専門教育は受けられない。まして留学など思いもよらない。しかし、明治青年はあきらめない。身を粉にして働き学資を得、知恵も絞って志を遂げる。その代表の一人が実業家で政治家の星 一(ほしはじめ)である。
星 一
1873明治6年12月、石城郡錦村で生まれる。農家で豊かでない上に、父の星喜三太が政治に興味をもち、ことさら貧しかった。地域の学校を卒業するのもやっとの身だったが、星はアメリカへ行きさえすれば得るところがあるに違いないとの希望を抱いた。
折しも磐城郡役所が、小学校教師を速成的に養成する必要から「授業生養成所」を設け、生徒を募集した。星も志願して半年後、優秀な成績で卒業すると、郡長に師範学校を薦められたが辞退。そして、養成所で得た80円を父親に見せ、志を話して許しを得ると上京した。
1891明治24年、18歳で私立・東京商業学校に入学(別に官立の高等商業学校があった)校長は高橋健三)。高橋健三は明治の官僚、ジャーナリスト。のち第二次松方内閣書記官長に就任。
星に郷里からの送金は少なく苦学のさなかでも、アメリカ行きを考えて日本固有の技芸を身につけようと生け花の懐古にも通った。星の努力と周到な準備に驚くが、この先もやみくもに突き進むばかりでなくよく考えて道をゆく。
1894明治27年、21歳で卒業、父がアメリカ行きの資金にと300円送ってくれた。
渡米前、日本を知るために3円50銭で古自転車、2円で東京神田の古本屋で一冊2銭3銭の本を買集め、古外套と麦わら帽子も買って旅支度をし、残った290余円は銀行へ預けた。
星は2円だけもって自転車で東京を出発、品川、川崎、保土ヶ谷と東海道を、古本を売りつつ旅をしていた。途中、自転車が壊れたので古本を背負い、木賃宿、停車場、古寺などに寝、どうにか大阪に辿りついた。その夜、木賃宿の宿代を払ったところで貯えがつき、東京商業の校長だった高橋健三が主筆となっている大阪朝日新聞社を訪ねた。
高橋に事情を話し、朝日新聞をもらい受けて梅田の停車場へ行き、毎日、もらった15部を呼び売りした。そんな星に高橋夫人も感心、新聞社に来る新刊紹介の読み残し300冊を与えるよう助言してくれた。星はその古本と行商品を仕入れた。さらに大阪商船会社への紹介状をもらい、自ら交渉して船賃は船中の労働を条件に無賃で乗船させてもらえることになった。
神戸から汽船で九州の東海岸から鹿児島、琉球(沖縄)、長崎、門司と行商をすることができた。無銭旅行にも等しい旅を終え東京に戻ると、次は故郷の錦村へ帰り父母に別れを告げ、いよいよアメリカへ出発した。
さて、アメリカ・サンフランシスコに到着したものの一文無しの星一、日本福音会を頼って奉公口を探した。そして、いろいろな店で皿洗い・窓拭き・床掃除などして働いた。しかし働くだけでで勉強する暇がないので、着の身着のままニューヨークへ行った。
折しも真夏で避暑地のニーポート海岸が賑わっていたので、別荘の家僕などして働き150ドル稼いだ。その金をコロンビア大学授業料1年分として納め、経済学、統計学を学んだ。
生活費を得るため日曜日だけ働ける家を探し下働きをしたが、そこの主婦の信用を得て家に置いて貰えることになった。こうして、1901明治34年、コロンビア大学を卒業することができた。
卒業後、すぐに帰国せず、ニューヨークで日本語の週刊新聞〔日米週報〕と、英語の月刊雑誌〔ジャパン アンド アメリカ〕を発行した。雑誌の方はまもなく雑誌「英文週報」に合併される。日本の官庁の保護金をもらったが経営困難で、「日米週報」は帰国するとき手放した。
この間、ヨーロッパ、アフリカのアレキサンダーやカイロにも行き、ナイル河を眺め平原の広さと河岸に木がないのに驚く――― 森林の無いということが、自然と協力をしないということになるのだ(星一『自国を知れ進歩と協力』)。また、在米中、同郷の野口英世や後藤新平と知り合い親しくなる。
1905明治38年帰国、暫く横浜のアメリカ人の仕事を手伝って生計をたてていたが、一年ほどして、ツテを求めて農商務省の嘱託となり外国の経済調査を行った。次ぎ、月賦で自転車を買い深川・本庄・上野・新橋の商店を見て歩き、いろいろ分析した結果、売薬業に発展の余地を見いだす。
1906明治39年3月、初代韓国統監伊藤博文に随行、京城に三ヶ月滞在。各人の住宅地に一本なり日本なりの木を植えることが必要ではないかなどとの感想を抱いた。
1908明治41年、福島県から衆議院議員に当選(桂内閣の時代)。東京小名木川に資本金400円で製薬所を設け、湿布薬イヒチオールを製造して成功、莫大な利益を得た。
1911明治44年、資本金50万円で星製薬株式会社創業。西五反田に近代的な工場を建設して、株式の公募・衛生面・福利厚生重視など新しい経営を行い、大衆に的を絞った新聞広告を掲載する。宣伝文「クスリはホシ」は世間に広まった。
1921大正10年、台湾にキナを造林(『キナに関する座談会速記録』昭和9年於台北鉄道ホテル)。南アメリカ原産のキナの樹皮からとれるキニーネは解熱剤で、マラリア病の特効薬。星は台湾でも事業をすすめ、南米ペルーに広大な薬草園をつくり、モルヒネ・コカイン・キニーネなどの製造に成功し「製薬王」といわれた。
1922大正11年、星製薬商業学校(現・星薬科大学)を設立。
1925大正14年、解剖学者小金井良精の次女せいと結婚。
この年、阿片令違反で起訴される。台湾経営に腕を奮った後藤新平の政治資金の提供者だったこともあって、アヘン令違反で逮捕された。成功をねたむ同業者の嫉妬や政党間の争いから汚名を着せられ、2年にも及ぶ裁判で無罪となったものの大きな痛手をこうむった。
1926大正15年、太平洋製薬設立。長男・親一(SF作家・星新一)生まれる。
1946昭和21年、衆議院議員総選挙、3回目の当選。翌年、第一回参議院議員通常選挙全国区に民主党から出馬しトップ当選を果たした。
1951昭和26年、星製薬は昭和20年の空襲で主力工場を破壊され、敗戦で海外拠点も失っていたが、星は再建を図っていた。しかし、ペルーへの日本人移民とコカイン栽培計画のため滞在していたロサンゼルスで客死。78歳。著書、多数あり。
星製薬は息子の親一が継いだが経営は傾いてい、親一は会社を手放し、後にSF作家となる。
参考: 『民間学事典』1997三省堂/ 『裸一巻から』1924実業之日本社/ 『星一とヘンリー・フォード』京谷大助1924更生閣/ 愛知県壱万円以上実業家資産名鑑・大正拾壱年拾月現在』若越書院(富山県・新潟県・福岡県なども内容同じ、後半にそれぞれ各県の実業家名を掲載)
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