« 博文館*私立大橋図書館、大橋佐平・大橋新太郎(新潟県) | トップページ | 明治の弁護士・特許弁理士、岩崎惣十郎&高橋順平(宮城県) »

2015年11月 7日 (土)

学術技量、詩文にすぐれた兄弟、大竹多気と松田学鴎 (福島県)

  ときにコメントを寄せてくださる方があり励みになっている。その方々も、幕末からこっちの歴史、ご自分で調べているかも知れない。近代の史資料には刊行されたものも多く、また明治・大正時代の書籍や雑誌、新聞なども探せばけっこうある。とはいえ、なかなか欲しい情報に辿りつけない。しかし資料漁り、意外に無駄にならない。目的物でなくても興味深い人物、事蹟に出会えることがあるから。いい学校・いい会社コース途上の人は別にして、好きで調べ物をしてる者は興味の赴くまま好きなだけ寄り道できる。
 ところが、明治維新後、会津人が勉学するのは容易ではなかった。賊軍とされた側にとり学問知識は生きる術、処世に必須だ。食うに事欠いても励まなければならない。その奮闘努力のさなか、もし兄弟がいれば励ましあえるだろう。会津の兄弟は山川浩・山川健次郎、柴四朗(東海散士)・柴五郎が有名だが、大竹多気(おおたけたけ)・松田 甲(学鴎)兄弟も活躍した。そして兄弟ともに詩文をよくした。

      大竹 多気 

Photo_2
 1862文久2年10月7日、父は会津藩士・松田俊蔵。藩のエゾ地支配により一家で北海道に赴中、現在の北斗市で生まれた。多気は同じ藩士の大竹作右衛門の養子となる。養父は斗南藩会計係をつとめ、のち事業をし失敗するが、やがて回漕業で成功する。
 1873明治6年、上京。久留米藩主が創った有馬私学校に入る。同級生に内村鑑三
 1874明治7年、攻玉社(近藤真琴)、次いで工部寮小学部入学。攻玉社には弟松田甲や藩主の子松平容大も入る。主宰の近藤真琴とは卒業後も交流を続けた。

 1877明治10年4月、工部大学校入学、機械工学を学び明治16年卒業。工部学校時代は病気がちで、英語の本を読み、雑誌『少年園』へ寄稿など文学的活動をしていた。

 1883明治16年5月、千住製絨所の雇員となる。
  千住製絨所は明治政府が設立した官営模範事業の一。毛織物の振興と羅紗製製軍服生産のため明治12年東京足立区千住に建設、のち一般の需要に応じたが経営は赤字だった。

 1885明治18年、製絨所を管轄する農商務省からイギリスに派遣され、留学して染色法・機織法などの研究と機械類の買い付けであった。ヨークシャー大学ハンメル教授に科学及び色染技術を学んだ。大竹はそれらを学問的に学んだ最初の日本人といわれる。
 1889明治22年、帰国。日本の機織および色染の両方面を開拓した。当時の日本の染色技術は天然染料を主流としていたため、色落ちの問題を抱えていた。生糸生産国でありながら付加価値のある製品を輸出できなかった。そこで大竹は、学問的知識がなくても利用できる染料の分類方法を紹介し、合成染料を導入し発展に寄与した。
 1900明治33年、千住製絨所の技師に昇進。東京帝大や東京工業高等学校講師をつとめ、明治34年、工学博士の学位を授与された。
 1902明治35年4月、千住製絨所長。『自動織機』を著し後の開発に影響を与えた。
 1908明治41年、官制変更により工務長に降格。

 1910明治43年6月、東北帝国大学教授 兼 特許局技師米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)の事務取扱を命ぜられる。この年、会津若松城を訪れ、和歌を詠んだ。

    そのかみの うらみも深く 紅のちしほ染め出す 城のもみぢ葉

 1911明治44年、米沢高等工業学校長 兼 特許局技師となる。大竹を初代校長に推挙したのは米沢出身で農商務大臣の経験がある*平田東助。米沢高工の図書館開設の際、大竹は蔵書、雑誌を多数寄贈する。
*平田東助   https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/05/index.html

 1914大正3年6月、第八高等工業学校(桐生高等染織学校)の創立準備委員に任ぜられ、大正5年1月、初代校長となる。同校は群馬大学理工学部の前身で、大竹は最初の入学生34名を前に「艱難汝を璧にす」の言葉を贈り、覚悟を促した。しかし、病のため
 1918大正7年7月、在職中、自宅で死去。

  ―――(未だ56歳) 36カ年の久しき、本邦染織工業並びに染織工業教育のために尽瘁されたつ功績は偉大であった。日本の織物を学問的に研究した元祖であるが、先生は「メカ」の人にして同時に科学及び色染の人であったのです(中略) 先生は趣味として文学を愛せられ、詩に、和歌に、名文に於いてその道の士に認められた。先生、今や無し、月日は流れて十年、青山墓地にあぁ!!(「故工學博士大竹多氣先生」桐生高等工業学校色染会)。
 写真 『色染叢書・第11号』より。

      松田 甲 (学鴎)

 1864元治元年7月7日、生まれる。戊辰戦争後、多くの会津藩士とともに一家で下北半島の斗南に移住、次いで北海道に渡るも困難な生活が続いた。
 1878明治11年、兄、大竹多気の居る東京へ。
 1879明治12年、近藤真琴の攻玉社に入り測量学を学ぶ。攻玉社の友人に、日露戦争に出征し旅順港の閉塞作戦で戦死した広瀬武夫がいる。師の近藤真琴は旧鳥羽藩士、蘭学により測量・航海術を修得、幕府海軍操練所翻訳方・測量学教授の補助をつとめた。

 1882明治15年、参謀本部の測量技師となり、日清・日露戦争に従軍。おそらく、同じ参謀本部に属し清国差遣となった砲兵中尉の柴五郎と会津人同士、話もあっただろう。
 1890明治23年、漢詩結社「星社」に加わる。星社主宰の森槐南は常識あり政治力もある能吏。伊藤博文の殊遇を受けていたから良く言わない者、敵も多かったが、詩人としてすぐれていた詩壇の巨星。
 松田は、少年のころから漢詩の心得はあったが、職業柄各地の山川に触れるうちに詩情を動かされ熱中するようになった。明治30年代になると、複数の詩会に出入り、また「百花欄」などの詩雑誌に絶えず詩を寄せ、漢詩人としての地歩を固めた。

 1906明治39年日露戦争後、臨時測量部の測量主任として、台湾・朝鮮・満州などを踏査。
 1908明治41年、南清方面、翌年は蒙古方面に派遣されて実測に従った。
 1911明治44年、参謀本部を退き、朝鮮総督府臨時土地調査局監査官となる。

 1918大正7年4月、朝鮮総督府臨時土地調査局が解散となり、請われて朝鮮総督府逓信局の吏員養成所に迎えられた。この年7月、兄の大竹多気が死去。一時帰国して葬儀に出席したのか、のちに青山墓地に参ったかは判らない。
 1919大正8年、斎藤実朝鮮総督が京城に赴任。松田は斉藤の殊遇をうけ、いくつかの漢詩社の創設に関わり、自らも漢襟社を始めて後進の指導にあたった。
 朝鮮総督府吏員養成所では、修身・国語を教えた。
 1923大正12年、退官後も総督府嘱託となって文書課に勤務。この頃から、日鮮文化交流史に著述をはじめ、日本と朝鮮の融和に尽くした。

 1933昭和8年、古稀を迎えて退職。これまで続けてきた著述に精を傾けて過ごす。松田は、漢詩の他に和歌・俳句を嗜み書もできた。その著作、筆者に漢詩文は読めず『皆夢軒詩鈔』は無理なので、『日鮮詩話』を開くと、第一編のはじまりは、日鮮共栄〔徳川時代の朝鮮通信使〕。
 先だってのニュースに、日韓の人々が自転車で通信使の行程を辿るというのがあった。互いを知ることが融和の始まり。
 1945昭和20年7月17日、終戦目前に死去。81歳。

   松田の死後、長く勤務した参謀本部は廃止となり、同じ参謀本部に属した会津人柴五郎も敗戦4ヶ月後に死去。こうしてみると、二人とも物心ついたときは戊辰戦争、そしてまた第二次世界大戦の敗戦。この間に幾つもの戦争があった。しかし戦後70年戦争がなかった。この平和がいつまでも続きますように。

   参考: Wikipediaフリー百科事典「大竹多気」 / 『明治文学全集・第62巻』1983筑摩書房/ 『色染叢書・第11号』1927桐生高等工業学校色染会編/ 『日鮮詩話・第一編』1927朝鮮総督府

|

« 博文館*私立大橋図書館、大橋佐平・大橋新太郎(新潟県) | トップページ | 明治の弁護士・特許弁理士、岩崎惣十郎&高橋順平(宮城県) »

コメント

千葉県の漢文資料の調査研究をしている辻井と申します。昨日、今や忘れられた漢学者である千葉昌胤の調査をしに、国会図書館に行き、雑誌『朝鮮』『朝鮮及満州』を調べていると、松田学鷗の漢詩をたくさん見つけましたよ!

投稿: 辻井義輝 | 2022年9月 6日 (火) 13時38分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 学術技量、詩文にすぐれた兄弟、大竹多気と松田学鴎 (福島県):

« 博文館*私立大橋図書館、大橋佐平・大橋新太郎(新潟県) | トップページ | 明治の弁護士・特許弁理士、岩崎惣十郎&高橋順平(宮城県) »