明治の西洋木版・東京美術学校フランス語教師、合田清
世の中には大小さまざまな催し物があり、審査をして表彰するものもある。スポーツのように優劣が見えにくい文化・芸術分野では審査が重要である。先だっては、一旦決まった2020年の東京オリンピックのエンブレムが取り消されたばかりか不名誉は審査委員にも及んだ。いろいろよくなかったと思うが、仕組みにも問題があったのではないか。公平なやり方で良い作品・立派な人を選び出すのは難しい。そのためには技能に加え心ある審査員が必要と思う。
明治期にも国内外で博覧会が催され審査官が選ばれた。全国勧業博覧会には「審査官列伝」などというもがある。その列伝で合田清に目がいった。実は、明治期の印刷業に関してで「合田清の西洋木版が活版印刷の挿絵に利用された」を読んだばかりだったから。
そしてその時、昔の本は絵や写真のページが独立していたのを思い出し、その訳は印刷が別々だったからと気付いた。絵と活字のページは製本のさい挟み込んでいたのだろう。今はこんなブログでさえ文字と写真を並べるのは簡単、技術の進歩はすごい。ただ、表現が技術の進歩に追いついているのかどうか。
合田 清
1862文久2年5月7日、父は幕府の旗本田島氏。江戸赤坂で生まれる。幼いころから物事に綿密で何事にも熱心だった。 1880明治13年、儒家・合田錦園の家に入り和漢学を修める。ところが、明治の世となり新しい事に目が向くと、儒学で一家をなすには数年の修学では目的を達せられないと学問に熱が入らなくなった。それより世に求められるような業務につきたいと考えた。その折しも実兄・田島應親がフランス公使館付きとなり渡仏することになった。清は兄に自分もフランスに行きたいと相談すると兄も喜んでくれた。
同年五月、兄とともにフランス留学のため横浜を出航。留学の名目は農学研究だったらしい。資料によっては農学研究に留学したが、美術の道に進んだとある。ともあれ、清はパリでフランス語を学んだ。言葉ができなければ教えが理解できない。やがて日常会話に不自由がなくなるとベルサイユに移り、さらに語学と美術を学んだ。
1881明治14年4月、パリに戻る。パリの清は「吾が生涯の業は何を営まん」あれこれ思い巡らし「巴里は世界第一の華美を好める地にしてヨーロッパ全州の流行はこのパリより及ぶと言える程なれば事に美術品を尊べり・・・・・・必ず美術の中に何か得意の技を学ばん」。
そして写真木版の技に心を留め学びたいと考え、兄と同宿の留学生で画家・山本芳翠にも相談した。山本は清の決心を聞くと、当時パリで評判の「バルバン工房」彫刻学校で小口木版(木版彫刻)を学ぶよう薦めた。
山本芳翠は美濃(岐阜県)の人。洋画家ではじめ京都で南画を修業、のち工部美術学校に入学しファンタネージの指導を受けフランスに留学していた。パリでジェロームに師事するかたわらルーブル美術館に通って模写に打ち込むなどして、フランスに3年いて帰国し、日本で合田清とともに彫刻の工房を立ち上げる。
さて、清は山本に勧められたバルバンに弟子入りして技を習う一方、画学専門夜学校主のバーニスについて絵を習った。なお、フランス語をアルカンボーに学んだ。
1885明治18年5月、パリで開かれた美術展覧会に木版画を出品して認められる。作品は画家モンバールが描いた景色の密画を彫刻したもの。10月、ベルギー・アンヴェルス万国博覧会を見学し暫く当地に留まり美術を研究して12月パリに戻った。
1886明治19年2月、バルバン工房を卒業。ある日、著名な彫刻師チリャの作品を目にして「稀なる彫刻かな、上には上がある」と感嘆、その刀風を慕いついにチリャの工房に入り通学した。その合間に他の彫刻家の工房や堀り方を見学して歩いた。
3月、日本の文部省から上野の教育博物館に陳列するため、西洋木版の順序を示す図画を彫刻し、又その技術に用いる諸機械を購入するよう命令があり、清はそれらを取り纏めて日本に送った。
5月、木版画をパリの美術展覧会に出品し前回に勝る賞賛を受けた。作品は画家・エミル・アダムの農夫が家に帰る図を彫刻したもの。
1887明治20年4月、チリャのもとを辞す。5月、パリ「モンド・イリュストレー新聞社」から日本特別通信員を嘱託され挿絵彫刻者となる。清は日本ではまだこの技術を得た者は一人もいないから帰朝してこの技術を広めたく思い7月、帰国の途についた。帰国後は文部省の嘱託を受けて高等読本・教科書の挿絵彫刻に従事した。
1888明治21年3月、芝区桜田本郷町14番地に山本芳翠と木版彫刻所を開いた。「生巧館」と称し、小口彫(西洋木版彫刻)を教え、かたわら彫刻の依頼に応じた。開業をはじめてすぐから盛況で徒弟も20人余り。「絵入朝野新聞」の挿絵は清の彫刻で、黄楊(つげ)の小口に彫刻する西洋木版が活版の挿絵に利用されたのである。
1890明治23年4月、生巧館を赤坂溜池に移す。
1896明治29年、東京美術学校(東京藝術大学美術学部)フランス語講師。
1899明治32年8月、臨時博覧会鑑査官となる。12月、東京美術学校教授を辞す。
1900明治33年2月、パリ万国博覧会出品連合協会委員としてフランスに渡航、教育部主任として監督した。なお、博覧会に自分も木版画を出品した。
1901明治34年3月、フランスから帰国。再び東京美術学校フランス語教授。
1903明治36年、第5回内国勧業博覧会審査官。当時の住所・東京市麹町区平河町6丁目14番地
1905明治38年、湿版写真ネガを下絵とする版画方法を考案。
1938昭和13年、死去。76歳。
合田清の西洋木版のつぎに網目写真版が用いられ製版の容易さと写実性で画像印刷と速報性を両立させ、日清戦争報道での印刷の盛行をもたらした。それから120年余、技術の進歩と共に情報量は物凄いことになって世はまさに情報の海。
なお、山本芳翠は1906明治39年死去。合田清と法律研究のためパリ留学中だった黒田清輝(明治・大正期の洋画家)の美術への転向は山本の示唆によるといわれる。山本の後進育成、洋画界の振興に尽くした功績は大きい。
参考: 『日本豪傑伝・実業立志』篠田正作1892偉業館/ 『第五回内国勧業博覧会審査官列伝・前編』1903金港堂/ 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『資料による 近代浮世絵事情』永田生慈1992三彩社 / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂
| 固定リンク
コメント