« ルビ付記者の活躍、磯村春子 (福島県相馬) | トップページ | 漢学者・照井小作(一宅)、聞達を求めず(岩手県) »

2015年12月12日 (土)

登米県権知事、漢学者・鷲津毅堂(宮城県・愛知県)

 旅の雑誌をみていたら、旧登米警察庁舎(警察資料館)・旧登米高等尋常小学校(教育資料館)などの趣ある写真にそえられた「登米町は別名“みやぎの明治村”と呼ばれる。それだけ明治の貴重な建築物を多く残す町。風雪に耐えてきた建物は町の盛衰を語る思慮深い賢人のようにも映る」の言葉通り、明治の人々の思い・洋風建築へ興味をかきたてる。
 仙台藩が誕生して現在の登米市は仙台藩の一部となった。伊達政宗部将の子、白石宗直は政宗から伊達姓を賜り寺池城(旧*登米町/とよままち)に入り登米伊達氏の祖となる。
  *登米: 宮城県北部、登米郡の町名などで、延喜式で郡名を「とよね」以来、「とま」「とよね」「とめ」と変化したが、「とよま」が町名に残る。
 明治維新後、仙台藩は戊辰の敗戦により62万石から28万石に大幅に減封され、版籍奉還によって4つの県に分割された。まだ戊辰戦争の記憶が生々しいなか漢学者・鷲津毅堂が新政府から登米県権知事に任命され、任地へ向かう旅の記録「赴任日録」(尾張・鷲津宣光)を書いた。
 「赴任日録」を読むと、江戸から東京と改められた地から陸奥国陸前までは遠く、泊まりを重ねての旅はけっこう大変だと分かる。駕篭と歩きの旅だから大雨、山越えには大弱り。知事の任お供は数十人のご一行様、小さな宿場は通り越し先まで歩かないと食事にありつけない。でも現代のように飛行機で一っ飛びは無理なかわりに、土地土地の状況がよく判る。稲穂が実らず青ければ民の困窮が察せられ、何とか救荒したいと考えを廻らす。その間にも名所古跡にいたれば学者知事は筆をとり感慨を漢詩で表現する。

      鷲津毅堂 宣光)

 1825文政8年尾張国丹羽郡丹羽村、鷲津益斎の長男。本名・宣光。
  幼い頃より父の教えを受け経史百家に通じていたが、さらに師について学ぶ。
 1845弘化2年、20歳。遺命により伊勢の津藩有造館教授・猪飼敬所に学ぶ。次いで江戸に出て昌平黌で学ぶ。
 1853嘉永6年、上総久留米藩の儒員に招かれる。
 1854安政元年、江戸に出る。
 1865慶応元年、尾張藩主侍読。翌年、明倫堂教授。3年、督学となって学制改革に尽力した。毅堂は勤皇の志が厚く、幕末維新の多難な時期に微妙な立場にあった藩主慶勝を補翼し、藩の進むべき方向を示した。
 1868維新後、藩主徳川慶勝が議定官に任ぜられると家老の成瀬とともに補佐。政府に徴されて権弁官。

 1869明治2年、大学少丞。次いで登米県(宮城県)権知事に任命される。
  戊辰戦争が終わり奥羽が平定した9月21日、東京を出発して千住まで見送りを受ける。草加・越谷そして粕壁(春日部)泊まり。翌22~25日、杉戸・栗橋・古河・間田・小山・石橋・雀宮・宇都宮・白澤・喜連川・大田原・鍋懸・越堀に至る。

 9月26日、連日の雨でぬかるみ滑って転ぶ者あり難儀する。蘆野に至り道は平坦になり雨も止んだが、稲が青々として直立、収穫されていない。七八月の台風で傷つき稲穂が実っていない。二岩三陸みなそうだというし、若松は更に甚だしいと聞けば心配で何と言っていいかわからない。人民は如何にして食料を得るのだろうか。救荒はどうしたらよいだろう。駕篭の中で思い悩んでいると「白河の関」だと声をかけられた。外へ出て能因法師が詠んだの古跡を見、古関をしのんで一絶を賦した。清岡知事を訪問。深夜大雨となる。
 9月27日、従者、ぬかるみに苦しむ。大和久・白河以北の村落みな荒涼としている。須賀川泊まり。28日、連日の雨だったが久しぶりの晴天。みな喜んで進み郡山に到着。本宮で休憩。石巻から高崎藩士が続々引きあげるのに出会う。戊辰の戦ので石巻を鎮め たが知事交代のため引きあげで、また二本松の官軍の戦を記す。
 9月29日、小雨が降るが午後は晴れ。機織りの音が聞こえ、信夫文字摺の出所『東鑑』を思いながら、桑折に至り泊まる。
 9月末日、越河。これより北は仙台藩旧封城で今は白石県管内。険しい道を岩石がふさぐ磨鐙の坂を過ぎて白石に至る。白石の知事を訪問しようとしたがまだ着任していなかった。その夜突然、松本奎堂の親友、岡千仭(鹿門)が訪ねて来た。仙台藩論に逆らい獄にあったが解放され憔悴していたが、元気に朝まで議論するので往生した。
 10月1日、舟で槻木を廻る。岩沼澤で飯。翌日、*塩竃神社に参拝し、船で松島をみて古詩一編を賦した。2日、今市を過ぎる。宮城野の旧地。塩竃神社は昔、国主新旧交代の時は祈ったので、弊物を進上して祷り、松島で休憩し高城に到る。夜雨。
   *塩竃神社: “戊辰の戦後処理、塩竃神社宮司、遠藤允信(宮城県)”
     https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/02/post-4338.html


 10月3日、快晴。三浦。村吏数人迎えに来る。三本木川を渡って県内に入ると先発していた黒田権少屬、熊城史生が出迎えにきていた。今春、土浦藩主が鎮めたので土浦藩吏・奥田図書がきた。
    登米郡は土浦藩取締地を経て涌谷県となり、のち登米県→一関県→水沢県→磐井県と変遷する。
  4日、本県管轄:土浦藩鎮所(戊辰戦後、土浦藩が取締り)の遠田・志田・登米三郡
  8日、土浦藩吏が来て、遠田・志田・登米三郡版籍及び官舎府庫を登米県に収める。
  10日、三局の分掌(訴訟・戸口・租税・殖産・修繕・橋梁・堤防ほか)をきめる。また、藩からの支給がなくなり武士の多くが困窮してい、武士に業につけようとつとめた。帰農の際には老農の意見を採り入れたり、その他の就業方法をさぐるなど、登米県在任中、救荒策に腐心し民政に努力した。
 1870明治3年9月8日、石巻県廃され登米県に合併(太政官日誌)。毅堂は尾張藩からの徴士であったためか藩政改革により免官となった。
Photo
 1871明治4年7月、宣教判官。廃藩置県あり11月、3府72県に整備される。
 1872明治5年、権大法官五等判事。
 1876明治9年、旧仙台藩領は宮城県に編入。「仙台県」でなく「宮城県」と改められたのは、明治新政府が仙台藩の雄藩イメージを抹殺したためだといわれている。
 1881明治14年、東京学士院会員に列す。学者としての最高府。
 1882明治15年10月5日、58歳で東京下谷の自宅で死去。ちなみに、毅堂は、小説家・永井荷風の外祖父にあたる。



   写真: 『郷土勤皇事績展覧会図録』1938名古屋市立名古屋図書館編

   参考: 『有隣社と其学徒』1925一宮高等女学校校友会編/ 『明治文化全集』明治文化研究会1969日本評論社/ 『毅堂集』1880鷲津宣光/ 『コンサイス日本人名事典』・『コンサイス日本地名事典』三省堂

|

« ルビ付記者の活躍、磯村春子 (福島県相馬) | トップページ | 漢学者・照井小作(一宅)、聞達を求めず(岩手県) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 登米県権知事、漢学者・鷲津毅堂(宮城県・愛知県):

« ルビ付記者の活躍、磯村春子 (福島県相馬) | トップページ | 漢学者・照井小作(一宅)、聞達を求めず(岩手県) »