ルビ付記者の活躍、磯村春子 (福島県相馬)
「華やかな着物姿のアメリカ太平洋艦隊-艦長・将校夫人たち14人と日本女性一人」
1908明治41年9月26日東京の三越呉服店撮影の写真が、横浜開港資料館<館報「開港のひろば」102号展示余話> http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/102/03.html に掲載されてる。日本人は新聞記者・磯村春子、展示余話には春子と子どもの写真もある。
明治41年と言えば日露戦争の勝利から3年の男社会、女性が表舞台に登場しただけで騒がれるような世相である。そういう状況で8人の子を産み育て記者を10年も務めたというから頭が下がる。筆者は知らなかったがNHKドラマ1986「はね駒」モデル女性という。その一生を垣間見るに面白いドラマだったにちがいない。
磯村春子
1877明治10年、福島県相馬郡中村町(相馬市)生まれ。小泉伊助とカツの長女。
◎ 宮城女学校(キリスト教主義の女子教育機関・宮城学院)に入学、寄宿舎生活をおくる。卒業後、母校で教鞭をとった。
◎ 実業家磯村源透と結婚、そして上京。女子大学(東京女子大学英文科)で学び、女子英学塾(津田塾大学)の津田梅子にも師事した。
1903明治36年、長男英一生まれる。
1905明治38年、報知新聞に入社、記者になる。同社には、後に日本最初の婦人記者といわれる羽仁もと子が校正係として入社していた。春子の初仕事は、横浜港外に停泊の汽船の甲板上でイギリスから帰国した林董夫人のインタビュー
――― 交際界に名だたる大使夫人の帰朝とて、なからず心おくれしたが、勇を鼓して先ず刺(名刺)を通じた。然るに何事ぞ、受付は夫人へは伝えもせずにちょうど物貰(ものもらい)でもあるやうに、追い帰そうとするのではありませんか。
私は、この時夢から醒めたやうな気がした。と同時に、新聞記者といふ職業を、初めて覚つたのである。世間から継子扱ひされる異分子ではない筈だ。どの集まりへも、入る事が出来て、同じ楽しみを擅(ほしいまま)にする事が出来ると共に、それを指導し、それを拡大し、並びにそれに光輝あらしめ得るのであると切に思われた。
1908明治41年、春子は英語が堪能であったから外国人との接触が多かった。艦隊が横浜に到着した当日、旗艦コネチカットでスペリー司令長官と握手したこと、艦隊に同行するニューヨーク・サン紙記者との交流、旗艦ルイジアナ号を訪問し、水兵たちと歓談したなど。それらを「婦人記者の十年」で回想している。
取材先にしばしば子どもを連れていき、当時の新聞は*ルビ付だったので、「子連れ」をもじって「ルビ付記者」と呼ばれた。家には女中がいたようだが、連れて行かなければならないときもあったのだろう。何があろうと子どもを放っておけない。
*ルビ: ruby ふりがな用の小活字。
1910明治43年9月8日、*山田猪三郎が開発した日本製飛行船の浮揚実験に同乗。
*山田猪三郎:和歌山。気球・飛行船の先駆者で日露戦争で陸軍が旅順偵察用に使用。
――― 婦人の新聞記者で大立者と謂つぱ、先づ指を報知新聞の磯村春子夫人に屈すべく、次では時事新報の大沢豊子・下山京子、萬朝報の服部桂子、二六新聞の中野初子・山内藤子等を数ふべし・・・・・・もし夫れ最も畏敬すべき磯村春子に至つては、家に春秋の愛子三人あれど、新聞記者が好きで堪らず、外国人の訪問には何時も御姿を拝せぬとい云ふ事なし。日本の女は人形のように美しかるべきを想望して、はるばる渡来した外賓も、着港第一番に接する女子の風貌の、極めて男性的なるに、吃驚仰天せざるは無しとぞ。磯村春子を有する東京の新聞紙界は、以て誇りとすべき哉(『東京の女』松崎天民1910隆文館)。
1912大正1年、『最新家庭のあみもの』実業之日本社刊。
1913大正2年、『今の女』出版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951262/139?tocOpened=1
目次:美人論・宗教心の乏しい女・夫が奮闘の首途・同級会の圧迫・産婆の見た家庭・展覧会は考へもの・探偵長の家庭・夫の命・素人と商売人・忘れ片見・美顔術師の店・事務服姿・歌劇役者の悶え・看護婦の立場・茶の湯の師匠・夢想女・鉱山師の妻・若き母・ホテルの主婦・俳優の妻・現金主義・歯科医の応接室・絵師の妻・発明家の二十年・婦人待合室・社会の裏口・誘惑・万年町の夕・落伍者・電車の客・目白台の婦人部落・女優部屋、付録・婦人記者十年。
1915大正4年、「やまと新聞」明治~昭和に発行された政府・右翼系の日刊紙に移籍。やまと新聞は円朝の落語・講談速記を連載するなど娯楽趣味の紙面づくりが受けた。
以後、春子は日本近代小説の英訳を志したが、完成したか分からない。この女性の翻訳なら欧米人に近代日本の感性をうまく伝えられたのではないかと思われ、その若い死が惜しまれる。
1918大正7年、病を得て41歳で死去。長男磯村英一、のちの社会学者もまだ中学生であった。夫、磯村源透の記録は見当たらなかった。
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<余 談>
2015年12月、トルコとロシア間の緊張がニュースになっている。いろいろあって今トルコに世界の目が向けられている。そのトルコは親日的、そのきっかけとなった物語が【海難1890】という映画になて公開されている。1890年の海難事故と1985年のテヘラン邦人救出劇、奇蹟の実話という広告に、数年前に書いた記事を思いだし引っ張り出してみた。
“トルコ金閣湾で釣り、谷干城と柴四朗” 2010.3.16
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2010/03/post-4cc2.html
“赤い羽根、エルトゥールル号義援金/エルトゥールル号の悲劇”2009.10.4
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2009/10/index.html
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2009/10/post-b138.html#more
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