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2015年12月26日 (土)

長崎海軍伝習所・宮古湾海戦・中央気象台長、荒井郁之助

         荒井 郁之助

   荒井郁之助、名は顕徳。幕臣・荒井顕道の長男。
 父の荒井顕道は幕府代官で『牧民金鑑』の編纂者として知られる。
  『牧民金鑑』とは、代官執務の便として、江戸初期から嘉永(1848~1853)に至る地方(じかた)支配(農村における民政一般)の法令・先例・慣行・史実を集録したものである。
 
 1836天保7年4月29日、湯島天神下の組屋敷に生まれる。
 1850嘉永3年、昌平坂学問所(昌平黌)に入学。また、書道・剣術・弓術・馬術を習う。
 1855安政2年、幕府小十人組番士、百俵十人扶持となる。このころ蘭学を学ぶ。
 1857安政4年、軍艦繰練所・長崎海軍伝習所で航海術を習得。
 1858安政5年、海軍(軍艦)繰練所世話心得。その後、順動艦長。
 1861文久元年、小野友五郎らと江戸湾の海防測量をし、千秋丸に乗り小笠原島に航海
 1862文久2年、軍艦繰練所頭取。順道丸船長となり徳川慶喜松平春嶽など大官を、大阪まで送ったり軍機の運輸など果たす。
 1863文久3年、講武所取締役、歩兵頭となりフランス人に歩操術を学ぶ。
 1865慶応元年、歩兵指図役頭取。大鳥圭介とともに横浜でフランス式軍事伝習を受ける。
 1867慶応3年5月、歩兵頭並に昇進。

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 1868慶応4年1月、軍艦頭を命じられ海軍職に復帰。
   戊辰戦争勃発により、海軍副総裁榎本武揚らとともに幕府の軍艦を率い、新政府下の江戸を脱出して箱館戦争に身を投じる。
 蝦夷地に赴くや徳川将軍家の血筋が来るまでの間、指揮者を定め組織を確立するため、アメリカ合衆国の例にならって士官以上の者の入れ札(投票)を行った。そして、総裁・榎本武揚(釜次郎)、副総裁・松平太郎、海軍奉行・荒井郁之助、陸軍奉行・大鳥圭介/並・土方歳三ほかを決定した。

   ――― 余は海軍を督して回天丸に乗り組み戦闘の準備と調練。その方法は、右舷の砲を左舷に据え、左舷の砲を右舷に据え敵に面する舷には左右両舷の砲を一舷に集めて其強力を倍する・・・・・・ 回天の目指して戦ふものは敵の甲鉄艦にして、50斤の砲弾を函館にて鋳造し、その弾頭を鋼鉄となし、甲鉄艦に試むる用意をなしたりき。

 1869明治2年3月、五稜郭榎本軍の司令官として軍艦回天丸に乗り、蟠龍高雄2艦を従え、新政府軍艦隊が集合する宮古湾に出撃。榎本軍は頼みの旗艦・開陽を悪天候で失い回天丸が榎本艦隊の中心であった。

   ――― 新政府軍の軍艦、甲鉄陽春春日丁卯であるが甲鉄は当時日本における精鋭第一の軍艦である。その四艦の撃滅と甲鉄艦奪取のため、回天丸艦長・甲賀源吾と荒井司令官は奇襲作戦を展開。
 回天丸は、宮古湾に浮かぶ新政府軍艦隊の真ん中に乗り入れると同時に四方の砲弾を発射しつつ甲鉄艦に近付いた。そして抜刀した兵が兵が乗り移り大乱闘になった。回天の兵は血まみれになって良く戦ったがついに敗退。戦いが激しくなり艦長の甲賀源吾が敵弾に斃れて戦死、死傷兵も多く、荒井はやむなく引きあげを決断、箱館湾に退いた。

  5月11日、新政府軍が箱館総攻撃を開始。湾上の回天丸も砲弾をあび航行不能となりやむなく上陸して五稜郭に入った。一週間後の18日、ついに力尽き降伏。榎本・松平・大鳥・荒井の四将は出でて政府軍の軍門に降り、戊辰戦争が終わった。降伏人一同は東京に護送され、糾問所の獄に入れられる。その場所は幕府時代に大鳥圭介とともに、毎日出勤して陸軍の事を処理していた大手前歩兵屯所であった。
 3年間の獄中、『英和対訳辞書』を編纂し出獄後刊行。

 1872明治5年1月7日、特赦により禁獄御免となり出獄。開拓使五等出仕を命ぜらる。
    (明治8年、内務省地理局が気象掛(東京気象台)をおき気象観測を開始する。)
 1876明治9年、開拓使仮学校(のち札幌農学校)・女学校、事実上の校長を勤める。
 1877明治10年、辞職して東京に帰る。
   「工業新報」刊行。「測量新書」などを翻訳。西洋の三角式により観測の基礎をつくる。
 1879明治12年、内務省に出仕、内務省測量課長となる。当時、日本人は気象学に通じていなかったの広めようとした。また、海軍の気象予測能力の不足を痛感。
 1882明治15年~測候所新設も進み、観測機関の中央機関として中央気象台設置し、日本の気象事業の基礎を築いた。『地理論略』ウァルレン著・荒井郁之助訳・文部省刊。
 1883明治16年、初代中央気象台長に就任。その後25年間も地理局に勤務して、わが国の地図の整備に努めた。
 1887明治20年、新潟県の永明寺山(現三条市)で皆既日食観察を行い、日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功させた。
 1889明治22年、『海上危険ノ時油ヲ撒スルノ説』著す、出版者・菊沢清光。
 1890明治23年、標準時の制定を行う。
 1891明治24年、退官。

 1893明治26年、榎本武揚と浦賀に遊ぶ。そのおり、幕府時代にここに小規模の船渠(ドック)あり、西洋型の船を建造した話になった。そこで、同志と図り、浦賀船渠株式会社を創立することになり、監査役に就任。
 1897明治30年、退社し、悠々自適の生活をおくる。
 1909明治42年7月19日、糖尿病がもとで死去。74歳。姻戚の田辺太一(連舟)が漢文で墓碑銘を記す。
   荒井は海軍職であったが水泳が不得手で、また下戸だった。人となりは、口数少なく穏やかで謙虚。人が宮古海戦の猛襲を問うと、「あの時は何が何やらサッパリ判らぬほどの激戦であった」と答えるのみだった。
 荒井の激動の生涯を見渡して、日清・日露戦争中の動静を伝える資料がないのに気付いた。戊辰戦争を戦った人々のかなりが日清・日露のために外征した。しかし荒井は既に50歳半ば過ぎ、出征することはなかったろうが、内戦を経て次は外国と戦争、何か思う所はあっただろうか。

 

   参考:写真、“荒井郁之助Wikipedia”
      [宮古湾の海戦、『日本軍事史』『箱館戦争写真集』] 
      『回天艦長 甲賀源吾伝・函館戦記』石橋絢彦1933甲賀源吾伝刊行会/ 『近世名将言行録』1935吉川弘文館/ 『幕府軍艦[回天』始末』吉村昭1990文藝春秋

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