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2015年12月19日 (土)

漢学者・照井小作(一宅)、聞達を求めず(岩手県)

Photo 東日本大震災がおきて5年、復興未だし。そのうえ原発事故に遭った地域では故郷に戻れない。海沿いの大熊町町民の多くが同じ福島県内でも遠く離れた山の方、会津若松に移り住み、小中学校の先生たちと子らを見守っている。
 でも、生徒は年々減っている。二つある小学校のうち大野小学校は避難当初204名だった生徒が4月からは20名以下になりそうという。他校も推して知るべしだが、心を寄せるしかできない。せめてもと、福島・宮城・岩手を中心に近代の人物を掘り起こすうち、東北地方は昔から多々「困難にあっては、打ち克ってきた」と知った。そしてそれは、今なお続いている。写真は大熊町のマスコット、おおちゃん

 力になれないまでも応援の気持ちで書きはじめところ、東北の明治人を知ることによって得たものが自分の為になってた。そうと気づいたら、なおさら「東北」が褒められるといい感じ。中央に出て活躍した人物を知るのも楽しみだし、実力がありながら敢えて郷里で出世や栄達(聞達)を求めず己の道をいく人物もまた好ましい。そういう人物は紹介甲斐もある。照井小作はその一人。

 ―――  西南には多智多識の人物輩出したれども、冷静の思索に長じ、堅実の創才に長じたる人物は、寧ろ反って東北より出でたり。例えば国防の予言者たる林子平氏の如き、開国の先見者たる髙野長英氏の如きは、西南地方に生まれずして、共に東北仙台の生まれ、特に近代第一の卓識家たる佐藤信淵、平田篤胤の二氏の如きも、東北の秋田に生まれたり。世間また大槻盤渓、那珂梧楼の二氏が東北近代の二大儒たるを知れども、盛岡の照井小作、弘前の工藤他山を知るもの殆ど罕(まれ) なり。この二氏は一生聞達を天下に求めずして、終に村夫子を以て自ら草莽に朽ちたりと雖も、その学術文章は決して時流に譲らず。
          (東北の人物『明治人物評論・続』*鳥谷部春汀・明治33年)
  *鳥谷部春汀: 明治のジャーナリスト。調査の行き届いた材料を基本に、情理を兼ね備えた人物評で好評。

     照井小作

 1819文政2年、盛岡藩士・照井小兵衛全秀の子として生まれた。本名全都、通称小作。号は一宅、ほかに蟷螂斎(とうろうさい)。
 父の小兵衛は、南部藩主南部利済(としただ)に 天保年間(1830~1843)仕えていた。財政のことに精通し、家老東中務に抜擢されて奈良宮司とともに勘定奉行を勤務した。その後、冤罪によって藩主の怒りをかい、録も家屋敷も取り上げられた。途方に暮れた一家は知り合いをたよって、岩手郡篠木村に移る。山間の地で、慣れない農業を営む暮らしは赤貧洗うが如しであっが、小作は父を手伝いながら、家に残っていた論語・孟子などの四書に親しんだ。
 時に父から教えられるのが楽しみだったが、父は重い胃腸病を患い、耕作が思うようにできなくなり癇癪をおこし機嫌が悪かった。それのみか、医者の注意もきかなかったので、小作は父をなだめつつ看病に励んだ。やがて、その甲斐あって、幸いにも父は全快し、小作に病中の看病を感謝した。
 小作は看病や農耕の合間にも読書は欠かさなかった。こうして睡眠を削って、四書を何百回も読み込み、論語について深く思索した。なお、はじめは中島預斎、ついで古沢温斎について学び、研鑽に努めた。

 1852嘉永5年、藩学・明義堂の助教兼侍読となり、漢学を教えた。
 1866慶応2年、藩学学制が改正され、明義堂の規模が拡張され名称も作人館となった。小作は引き続き助教を勤めた。
 貧苦と闘いながら築き上げた学問で藩に召されたのである。照井は初学者を戒めていう。
「古書を学ぶには、粉餅をこしらえる心持ちでなければならない。粉餅は粉に水を入れて、なんべんもかき回し、まま粉のないように融和しなければよい餅にならない。心の中で深く思い、広く考えて、一点の疑いの残らないまでに、根気よくかき回して、すっかり自分の心に融和せなければ自分の物ではない」。
小作は、学問における姿勢は注釈ではなく本文を熟思することを重視した。
 現代人は自分も含めて四書五経どころか漢文も読めないが、明治人は江戸の生まれで藩校や学問所に通い、孔子や孟子は身近で共通の教養だった。欧米文化の採り入れに躍起にだった明治初期さえ、漢詩文集が盛んに刊行され、読者も多かった。それを理解できるだけの下地があったから、文人や学者の仕事を理解できたのだ。

 ところで、作人館には那珂梧楼(なかごろう/江幡五郎)がいたが、照井について
「定見の確かさは金城鉄壁の如く抜くべからざる者がある」と嘆賞している。照井の経学、儒教の教えを説いた書を研究する学問は、真に千古に独歩する概があったと称される。那珂はかつて照井と同じく南部藩侯の侍講であったが、経学においては自ら照井の造詣に及ばないと称して常に兄事した。

 南部藩は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わり 十三万石に減封され白石に転国、藩校は廃止になった。

 1869明治2年7月、南部利恭が白石から旧地盛岡に復帰、再び藩校が再開された。
  同年11月2日、照井小作は作人館大助教となった。11月13日、盛岡藩権少参事となり、大参事の東次郎とともに藩政に参画した。

 1870明治3年7月、廃藩置県があり、小作は職を辞し南部利恭に従い東京に出た。
  晩年、郷里に戻り、古書の解註をおこなった。中年ごろから、狂歌や俳句、絵もたしなんだ。
 1881明治14年2月21日、死去。63歳。碑は盛岡市旧桜山にある。

   日本に亡命した中国人、清末・民国初期の学者・政治家の章炳麟(しょうへいりん)は小作の遺著を読んで、「照井全都ハ千四百紀以後ニ生マレ、独リ能ク高励長駕ス、ソノ微綸ヲ引キ既ニ沈マントスル九鼎ヲ釣リ而シテ之ヲ絶淵ニ出ス云々」と嘆賞している。

   参考:
      『郷土資料・修身科補充教材』1935岩手県教育会盛岡支部部会/『興亜あの礎石・近世尊皇興亜先覚者列伝』1944大政翼賛会岩手県支部/ 『南部叢書』1931南部叢書刊行会

   東北三陸の地域総合開発を説いた熱誠の人、小田為綱(岩手県) 
     https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/05/post-4a1b.html
   東洋史学者・那珂通世と分数計算器(岩手県)
     https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/02/post-fbfd.html
   盛岡市
    http://www.city.morioka.iwate.jp/moriokagaido/rekishi/senjin/007499.html 

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