日本速記法の創始者、田鎖綱紀(岩手県)
“An old man may have a youthful heart, and a poor may have a noble inclination.”――― 人は老ゆるも心は老いず、人窮するも志は撓まず
これは『大日本早書学』の緒言です。著者田鎖綱紀は速記術の創始者で幕末・安政生まれ、万延・文久・元治・慶応・明治・大正・昭和まで生きた。今は文字はもとより絵も音も何でも機械が記録する世の中になった。今、速記が用いられているか判らない。でも、速記を知ると往時の社会がうかがい知れ、今に残る速記による書籍から明治・大正、昭和初期も垣間見える。
国会図書館デジタルコレクションで <速記>を検索すると3000以上もの書籍がある。
落語・講談本から訴訟記録、何冊もの「維新史料編纂会講演速記録」「県会速記録」。かと思えば、三陸地震・津波で死者3008人の記録「岩手県昭和震災誌・昭和8年3月3日」帝国議会速記録というようなものがあり、78年後に東日本大震災が起こった。被災映像の生々しさは忘れられない。こうしてみると記録の技術は驚くほど進歩したが、災害を無くす科学技術の方は未だし。
田鎖 綱紀 (たぐさり こうき)
1854安政元年8月15日、南部藩士・田鎖仲蔵の次男として盛岡油町(盛岡市本町通)で生まれ、嗣子のない田鎖本家を継いだ。幼名・八十吉、筆名・楳(うめ)の家元園子。
祖父の田鎖左膳は、越後流兵学の免許皆伝。盛岡藩主・南部利済の側近であったが、「君側の三奸」の一人として領民から恨まれ、三閉伊一揆を誘発。一揆の影響で藩主が謹慎を命ぜられると左膳ら三人の側近も失脚、藩政から遠ざかる。孫の綱紀は戊辰戦争前、髙野長英の弟子・内田五観に師事、英学を学ぶ。
1868明治維新後、旧藩主が東京に開いた共慣義塾で学ぶ。
1869明治2年、大学南校(東京大学)に入り英語や数学、測量術を学んだ。在学中、師のウィルソンがもっていた、「ポピュラー・エデヰュケーター」で、ピットマンの速記をはじめて見た。
1870明治3年、新橋-横浜間の鉄道敷設の測量作業に従事。
1871明治4年、旧盛岡藩士・一條基緒の紹介で、工部省鉱山寮(のち鉱山局)に出仕。
1872明治5年、御雇外国人ガットフレーの命で秋田県の大葛金山に赴き、アメリカ人技師士ロバート・G・カーライル博士と出会う。そこでは博士らが母国との手紙のやりとりに、グラハム式速記を使用していた。綱紀は外国では速記が普及していることを知って興味をもち、日本語の速記化を思い立った。
1876明治9年、病を得て鉱山を下山。東京で療養生活をおくる。その後、独力による速記術創設に悪戦苦闘がはじまる。
1878明治11年、「内外教育新報」に就職。業務のかたわら中国語を学んだほか、のちに朝鮮語やエスペラントも学んだ。
「内外教育新報」は、信濃国(長野県)飯田出身の田中義廉が主宰。
田中が文部省にいたときに編纂した『小学読本』はわが国最初の小学国語読本で、世に大きな影響を与えた。その新聞に和歌山県の下村房次郎(県会議員・和歌山日日新聞主宰)が絶えず起稿していた。田鎖は関西方面に出張すると下村に会い、遊びも一緒にした。下村には「教育新論及修身階梯」など著述があり、意気投合したのだろう。
この年7月、『英和記簿法字類』を発行。これは、ある依頼に応じてイタリア記簿法を学んで発行したもので、日本で最初の簿記の単行本とされる。
1879明治12年10月3日、「内外教育新聞」を主宰する津田が死去したため、新聞は廃刊になってしまった。そのとき、田鎖は和歌山に居たので、東京に帰るため下村から30円借りて陸路大阪に赴いた。さらに神戸迄行き、船で横浜に行くつもりだった。しかし、手元に7円しかなく困っているとき、藤田積忠という人物にめぐり会った。藤田は、東京にあてがなければ、神戸の支那語学校に肩入れてみないかと、田鎖に声をかけ田鎖はやってみることにした。藤田の経歴は判らない。
学校は日本と中国との貿易のため五代友厚、藤田などの後援により設立。中国人三人を先生に雇い、田鎖が当面の名義人校長となった。ところが学校は翌年、はやくもつぶれてしまった。田鎖は学校の名義人として1万円の借金を背負うことになり、和歌山の旅館・富士源で自殺を図ろうとしたが、そこへ下村房次郎が駆けつけて止めた。田鎖は思い返し、東京に逃げるように帰った(下村房次郎の息子、下村宏『思ひ出草』)。
*下村宏: 大正・昭和期の政治家・ジャーナリスト。昭和天皇の玉音放送でも知られる。
1880明治13年、東京麹町元園町に下宿し、日本語速記法の発明に没頭した。それから3年にわたりお茶の水の聖堂・上野の教育博物館・番町の塙保己一文庫・浅草蔵前の千代田文庫などに弁当持参で通い詰め研究をすすめた。そして、グラハム式の英語速記法を日本語の速記に翻案し発表する。
1882明治15年9月19日、「時事新報」に「日本傍聴記録法」を発表。
10月28日、「日本膨張筆記法(速記術)講習会」を開催、24人の生徒に自身の編み出した速記法を伝えた。以後、普及に努めたがまだ実践的でない点もあり、生徒たちは田鎖の速記に独自の改良を加えた。
1883明治16年、事業母体を日本傍聴筆記学会とし、全国規模で速記教育を行った。
7月、「郵便報知社」が田鎖の門人・若林玵蔵を招き入れ、自由新聞紙上の記事取消請求に関する談判の顛末を速記させたのが速記実地応用のはじめ。若林はまた、三遊亭円朝の講談『怪談牡丹灯籠』を速記して世間の評判となった。
1884明治17~18年ころから、学術・技芸・宗教などの集会、演説を速記して新聞紙上に掲載されることが多くなり、学者や新聞記者もこれを用いて著述するようになった。そのスピードは一分間に約300字くらいであった。この速記に元老院の金子堅太郎が目をつけ、国会議事録への採用を提案する。
1890明治23年、第一回帝国議会が開かれ、両院に議事録はことごとく速記を用いた。明治40年ごろには、常任速記者が5、60人もいたという。
―――田鎖綱紀が考案した速記術・・・・・その伝統が大きな区切りを迎えた。参院は手書きの速記を廃止し、パソコン入力に一本化することを決めた。速記者養成所を閉鎖するなど、これまでの体制を縮小。・・・・・一方、衆院は本会議と予算委員会で速記を続けている。同時に、自動音声認識システムの活用も進めている。・・・・・速記廃止もデジタル化が進む中で議会が変わっていく表れだろう。議員からは惜しむ声も聞かれる。・・・・・(『毎日新聞』2023.12.8「余録」)。
1894明治27年12月24日、速記の発明者として藍綬褒章授与される。
1896明治29年、終身年金(第一号300円ずつ)を下賜される。
1908明治41年、中国語速記術、朝鮮語速記術を発表。
1913大正2年、『大日本早書学』博文館から発行。写真はこの本の速記文字。巻末の質問票からは普及への熱意が感じられる。
1916大正5年、エスペラント速記術を発表。
1927昭和2年、74歳。下村宏を訪ねて前出、房次郎との想い出を語る。
1938昭和13年5月3日、東京上目黒で死去。享年85。
自作の戒名は「日本文字始而造候居士(にほんもじはじめてつくりそろこじ)」。
参考: 盛岡市ガイド(盛岡市教育委員会)田鎖綱紀/ wikipedia田鎖綱紀/ 『思ひ出・二黒の巻草』下村宏1928日本評論社/ 田鎖綱紀
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コメント
田鎖綱紀が日本で最初に西洋簿記法の書籍を発行したという記述があり、福岡隆の日本速記事始めにも書いてあります。しかし、久井孝則の論文「明治初期の簿記導入史の研究」には田鎖以前に多くの簿記本が出ていたようです。私がサイトを見た目的は、清沢与十という人物と清沢準次という人物と田鎖との関係を調べることでした。以前準次が田鎖の簿記本の発行人であったことを現物で知った記憶があり、与十は田鎖式最初の速記本を発行した人物なので、人間関係を調べたいという動機です。
投稿: 兼子次生 | 2021年1月18日 (月) 09時22分