小学唱歌・音楽教育と吃音教育の先達、伊沢修二 (長野県)
てふてふてふてふ なのはにとまれ なのはにあいたら さくらにとまれ
さくらのはなの さかゆるみよに とまれよあそべ あそべよとまれ
この歌は享保ごろの童謡より取れり・・・・・・歌趣は例の勤励にて、蝶蝶よ止まるならば菜の葉にとまれ、然れども性として物に好悪あれば飽きたら、それより香しき桜にとまれといひて、児童の勧学を諭し・・・・・・桜の咲くと栄ゆるを懸けて御代を頌揚
(『小学唱歌集評釈』旗野士良1906同文館)
1872明治5年、近代の学校制度を定めた[学制頒布]によって「唱歌」が小学校の一教科となったが、全く形式だけのことであって事実は「当分之を欠く」であった。原因は、教える教師がなく教材も無かったからである。
1879明治12年、伊沢修二の意見により文部省内に音楽取調掛を設置。のち音楽取調所と改称、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)の前身である。第一の事業として伊沢が中心となり、アメリカ人メーソンも加わって『小学唱歌集』を編纂。
1880明治13年2月、伊沢修二のアメリカ留学中の恩師ホワイチング・メーソンが招きに応じて来日、西洋の声楽を興す基礎を作った。
メーソンは知人らに「日本に行くことはむだだ。日本に新しい音楽などが興るものか」と反対されたがそれを押し切ってやってきた。来てみて、日本には雅楽もあるし俗曲もある。陸海軍の軍楽隊もあり洋楽の基礎はできていると意を強くした。男・女の師範学校、付属の幼稚園へ行って直接教えた。幼稚園では庭に出て幼児らに取り囲まれ教えたが、貞明皇后(昭和天皇の生母)もそのときメーソンから唱歌をならった一人だという。滞在2年半の間に、宮内省雅楽部の上真行らも入門してチェロその他を学んだ。
『小学唱歌集』
1881明治14.11.24、初編発行。「美しき」(スコットランド民謡)、「蝶々」(ドイツ民謡)、「蛍」(スコットランド民謡)、「故郷の空」ほか33曲を載せている。
1883明治16.3.18、第二編。「霞か雲か」(ドイツ民謡)、「舟あそび」など16曲。
1884明治17.3.29、第三編。輪唱曲や合唱曲があり、今も歌われる「仰げばたふとし」「庭の千草も虫の音も」など42曲が載っている。
――― 「小学唱歌集」三冊を通して、明治の末年に、小学校で実際に教えられた歌や、人の歌っているのを聞いて覚えた歌の見いだされるのがなつかしい (森銑三『明治東京逸聞史』東洋文庫)
1886明治19.11.3、帝国大学で唱歌会が催された。
――― 今の教員学生はいずれも未だ小学唱歌などのない時代に大きくなってしまったので、少しくらいは唱歌の心得もなくてはと演習会がうまれた。「見渡せば」「春の弥生」「すめら御国(みくに)」など学生が歌い、教員が「富士の山」など歌い、最後に合同で「蛍の光」を歌った。その他が「ラ・マルセーズ」「燕」を歌った。
1907明治40年、小学校令が改正されて義務教育年限の延長が実施され、「唱歌科」が必須科目となる。
1910明治43年、「尋常小学読本唱歌」発行。「カラス」「春が来た」「水師営の会見」など27曲全部、日本人による作曲。
伊沢修二
1851嘉永4年6月、信州高遠(長野県)に生まれた。号を楽石。
1867慶応3年、江戸に出て洋楽を修め、ついで京都にでて蘭学を修める。
1870明治3年、19歳、大学南校に入学、5年卒業して文部省に入る。
1874明治7年、愛知師範学校長となる。
1875明治8年、文部省留学生としてアメリカ・ブリッジウォーター師範学校に入り、教育を研究すると供に音楽を学んだ。卒業後、ハーバード大学に進んで理学を修める。
1878明治11年秋、帰朝。
1879明治12年3月、東京師範学校長となり、従来の制度に大改革を加えて科学的教育学を教授し、ペスタロッチの教育説を唱道した。また、音楽取調掛を兼任し唱歌集を出版。
1880明治13年、メーソン来日。洋楽に基礎をおき、和洋音楽の融合もある程度考慮に入れた唱歌教授のカリキュラムを創案するなど、わが国の音楽教育の基礎を築いた。メーソンによってたてられた基本方針がその後長く義務教育を通じて無批判に踏襲され、その結果、日本人の音楽趣味の発達は阻害されたといわれる。
(筆者) 21世紀の今、様々な手段が発達して世界中の音楽が簡、しかも瞬時に手に入り楽しめる。歌に限らず様々な物事がものすごい勢いで進化しつつある。スマホで音楽を聴く孫たち、彼らが大人になったときの世の中が予測がつかない。ますます便利になってるだろうと思う一方、なぜか不安がよぎる。たぶん、物の進歩に心が追いついていけてるか自信がないせいだろう。
1881明治14年、文部省教科書編集局長になり西洋音楽の普及につとめ、「小学唱歌集」を編集。尋常小学読本・高等小学読本など国定読本を編纂した。
1882明治15年、『学校管理法』、明治21年 『教育学』を出版、どちらも版を重ねる。
1890明治23年、東京音楽学校長となる。「紀元節の歌」など唱歌の作曲ある。
1894明治27年、辞職し、「国家教育社」を創立し、国家主義の教育を唱え、雑誌『国家教育』を発行、忠君愛国主義の教育を鼓吹した。『伊沢修二教育演説集』出版。
1895明治28年、日清戦争後、台湾が日本の版図となるや自ら進んで教化にあたり、台湾総督府の学務部長をつとめる。
1897明治30年、多年の功績により貴族院議員に勅選される。
1899明治32年8月、東京高等師範学校校長。翌年、病のため辞職。以後、公職につかず、吃音矯正の研究につとめた。
1903明治36年、東京小石川に「楽石社」を創設して吃音矯正につとめた。恩恵によくしたものは5千余名に及ぶという。
1911明治44年、『吃音矯正練習書』、翌45年、『吃音矯正の原理及実際』出版。
1917大正6年5月、病で没す。享年67歳。
参考: 『伊那案内』 岩崎清美1926西澤書店/ 『日本史辞典』『コンサイス人名事典』三省堂
| 固定リンク
コメント