彰義隊・伝道者・文学界・幕末小史、戸川残花(江戸・備中)
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昨年の漢字は「安」でした。安心・安全の「安」というのに、「不安の安」かと思っちゃいました。そう思わせる事件事故が多く、気候も温暖化のせいか変。そのうえ、今の日本には戦争の二文字がのしかかっているような気がします。孫をもつ世代でも戦争の記憶がなく、戦争を語れる人はごく少数です。宇宙飛行士・毛利衛さんの「正義の戦争ない」(2015.12.30毎日新聞)をしっかり受け止め、子や孫に伝えたい。
ところで、明治人は戊辰戦争にはじまる幾度とない戦争が身近でした。牧師で詩人の旧旗本、戸川残花も幕府が倒れ彰義隊に参加して上野の山で戦いました。その後をどう生きたのでしょう。
戸川 残花
1855安政2年10月22日、江戸牛込の旗本の家に生まれる。本名、安宅(やすいえ)。
家録を継いで、備中国早島庄の領主となり、禄5000石を食む。母の生家水野土佐守の影響で、西欧文化に憧れる。
1865慶応元年、長州征伐(江戸幕府と長州藩の戦争)。病気がちな兄・安道の名で出陣。
1868慶応4年3月、数えの14歳で兄の名代としてアメリカの蒸気船で品川港から神戸港をへて、京の太政官(維新政府の最高官庁)に、懇願書と岡山藩主の添書を提出。領地が、現・岡山県早島町にあった。
同年5月、少年ながら彰義隊に参加し上野の戦争で敗れる。
――― 編者(戸川)かつて「彰義隊戦史」に序す。 寛永寺一日の雨に彰義隊は敗れしと雖も、三河武士の骨法は300年間情緒に激して響けり・・・・・・
「玉疵も瘤となりたるさくらかな」と詠ぜしことあり。博物館に弾丸を包んだままの木あり・・・・・・慶応4年戊辰5月15日、降りしきる五月雨の中を恐れ多くも輪王寺宮法親王は落ちさせたまいしなり。寛永年間より東叡山と仰がれ、瑠璃殿も、吉祥閣も、法華常行両堂も、束の間に炎と昇り、煙と消え失せしなり。大小の寺院も同じく無常の夕露とのみ、若葉青葉に滴る惨状と変じ、御本坊すなわち宮様の御住居も焼け失せたり (『東京史跡写真帖』戸川残花編1914画報社)。
同年6月、一族と共に領地の備中国早島に移り住む。
1869明治2年、版籍奉還により領地を返納。早島戸川家は嘉永年間の借金が3万両、利子数千両もある上に幕末維新の動乱で借金がかさんでいた。財政は事実上破綻していたから、領地を返納したことにより借金地獄からは解放された。それにしても、政府は各地の返納領地の借金を返済したのでしょうか?
1869明治3年、領地を失い江戸に戻ったが、江戸の邸は大隈重信邸となっていたため、維新政府から与えられた代替え邸に住んだ。その後、開成学校(大学南校)、慶應義塾で勉学に励んだ。
1873明治6年9月、築地の戸川邸の向かい側に教会を設立した(のち新栄教会)宣教師ディビッド・タムソンに聖書を学ぶ。
1874明治7年12月、タムソンより受洗。ミッションスクール築地大学校で学ぶ。
1883明治16年からしばらく、巡回伝道者として、アメリカン・ボードの宣教師ベリー・J・Cと京阪神および岡山で伝道に従事する。
――― 弁舌は自ずからユーモアあり、皮肉あり、精彩あり、言い回しの巧妙なる所は、純江戸っ子弁でなければ、到底旨くゆくものでない。説教していた時も、誠に品の良い口調であった。
1887明治20年ごろは岸和田教会の牧師、その後、麹町(高輪)教会牧師。
1890明治23年、子ども向けの楽しい童話『猫の話』を刊行。
1892明治25年5月、『新撰賛美歌のてびき』ほかキリスト教関係の書籍・冊子を著す。伝道者を辞めるまで約10年間、賛美歌の作詩、翻訳、編集に従事、植村正久主筆の『福音週報』『福音新報』『日本評論』などに執筆した。
1893明治26年3月、松村介石と協力して雑誌『三籟』を創刊。同年、「築土文学会」をつくり、植村正久・尾崎紅葉・山田美妙・北村透谷・巌本善治・宮崎湖処子など会した。
同年、星野天知主宰の『文学界』の客員となり詩文を寄稿。中でも七五調と五七調を混用した哀れにして上品で美しい詩 「桂川(情死を吊ふ歌)」は、北村透谷に激賞された。
同年、毎日新聞(横浜毎日)の客員となり小説も書いた。
1897明治30年から3年間、旧幕の遺臣の名をもって生き、埋もれつつある幕府側の足跡を歴史に留めようと、勝海舟や榎本武揚の協力を得、また古老の話を聞き取るなどし、雑誌『旧幕府』を編集・発行。
また、史書・史伝の著述にいそしんだ。『幕末小史』は、追懐の情を史料探査に融解させた幕府滅亡史ともいえる。その意味で、島田三郎・福地桜痴(源一郎)・山路愛山ら旧幕出身の史論家の一人と数えられる。ほかに『海舟先生』『江戸史跡』など著す。
1901明治34年、日本女子大学の創立に成瀬仁蔵とともに参画。国文学教授となった。
同年、紀州藩邸跡(現東京都港区)に作られた、紀州徳川家の南葵文庫の主任学芸員を務めた。
――― 純江戸っ子弁であるから、非常に言葉に富んでいる。ベランメーから遊ばせ語まで、噛み分けのみ込んで居られるので、言い回しが誠に巧だ。氏が女子大学創立当初、寄付金勧誘に、ドッカと応接室に腰を下ろし、穏やかな粘りけある弁で、根気強く説かれるので、大抵は往生して多少の寄付をする。さすがの大隈伯も、氏の根気に負けて勧誘に応じた。・・・・・・氏は西行の『山家集』は最も得意とする所で、その講義を聴くと、眼前西行が彷彿するという評判である (『現代名士の演説振』小野田亮正1908博文館)。写真「演説の図」も同書)。
晩年は、本郷教会(弓町教会)に属したが、キリスト教を離れて禅にはいった。唯心的、神秘主義であるとともに社会への批判、世俗的権威への抵抗を行う多面的な浪漫主義精神の持主であった。その他、謡曲・俗曲・碁・釣り・骨董癖などなかなか趣味も広い。
1923大正12年9月1日関東大震災に遭い、自宅(現東京都品川区大井町)が倒潰、大阪の天王寺にいる長男と同居。
1924大正13年12月8日、死去。69歳。
参考:『日本キリスト教歴史大事典』1988教文館/ Wikipedia戸川安宅/ 戸川残花の著作は近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ 読めるものもある。
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