戊辰をこえて明治政府 農商務省技師、河原田盛美 (福島県)
今回誰にしようと考え中、[会津木綿と仕事づくり](2016.1.7毎日新聞)が目に入った。大震災・原発事故で会津若松に避難中の大熊町生まれ女性と会津坂下町生まれ経営者の対談記事、力を合わせ会津木綿を製造・販売している。対談から困難な環境にあっても、地域活性化に努める人の輪と心意気が伝わってきた。事業が盛んになりますように。
会津木綿は福島県会津地方で古くから使われていた厚地の織物。会津坂下町は藍染めの糸で織られる「青木木綿」の産地で、工場は30軒以上あったが今は2軒という。
――― 会津木綿、販路は主として農村僻陬であった。都会人の趣味好尚から縞柄・地質が時好に適しないと非難があるが、糸の太い蛮カラ極まる田舎向きの会津木綿は、より多く田舎から歓迎される勢いで、当業者も儲かり産額も増嵩し結果を収めている。
(『会津繁昌記』佐藤久米三郎・田尻浅之助著1922高阪信文堂)
原料糸を細くし縞柄を派手にするなど都会向きの品を作らなかった会津木綿、でも南会津郡出身、農商務技師・河原田盛美は丈夫でいいと着たかもしれない。長年、広く全国各地を歩き回り調査研究、なにより故郷を愛していた。
河原田 盛美 (かわらだ もりはる)
1842天保13年、陸奥国南会津郡伊南村宮沢(現・福島県南会津町宮沢)の河原田弥七の長男として生まれた。
幼少期から学問や和歌を習い、医書や武術、万葉集や古事記などの古学もまなんだ。
1858安政5年、16歳から下野、武州・総州・伊勢を旅する。その後も、奥州、越後、出羽諸国を遍歴。旅の見聞で、現地の事物から学ぶ学問、仕事の精神的基幹が養われた。
伊勢神宮参詣のおり知遇を得た荒木田守宣守卜により実名を盛美(もりはる)としたが、生地の南会津地方では「もりはる」でなく「もりよし」と呼ばれる。
幕末には、関東、東海、伊勢、大和、四国、山陽道をへて京都に入り中山道を巡歴。
1865慶応元年、23歳で名主の父に替わり勤め、それ以後、会津藩士として仕事。
会津藩の檜枝岐村で上野国との国境守備についた。藩の内命で、上野、下野、江戸、下総、常陸を巡回、時局の情報収集もして幕府の閣僚、藩主に接見した。また、蚕卵紙を改良、横浜の外国商人と取引するなど殖産への先見性をみせた。
1868慶応4年から1869明治2年にかけて戦われた戊辰戦争で会津藩士として戦ったが、明治維新後、若松県で生産局御用掛・通商掛となり産業の育成をになった。その間にも本草学を学び、開墾、養蚕などの改良に腐心した。
1871明治4年、近衛家家政に従事。
1873明治6年、大蔵省租税寮に出仕。近代国家へ生まれ変わろうとする時代にあって有能な人材が多く求められたのである。賊軍の出身であろうとも能力がある人材は必要である。
明治政府の大久保利通は「国の強弱は人民の貧富により、人民の貧富は物産の多寡にかかる」として民業の育成を図った。殖産興業に励む日本、ここに河原田の知識と技能を活かす道があった。
また、河原田は二院制国会開設建白書を提出し、地方制度の研究にも取り組んでいた。
1874明治7年、内務省地理寮出仕。同年9月、内務省琉球藩事務取調掛。
1875明治8年5月、*琉球藩在勤となり、以後、琉球、与論島、喜界島など南島と関わる仕事に従事。夜光貝、海産物、動植物、を採集し、南島産物の拡張を図った。
*琉球藩: 廃藩置県のとき琉球はひとまず鹿児島県の管轄になったが、明治5年、琉球藩を設置して政府の管轄下におき、国王を藩王とし外交権を剥奪。やがて台湾出兵、琉球処分へと至る。
1884明治17年8月22日、『沖縄物産志』執筆に着手。現地では、地元の人とともに動植物を採集、栽培、保存、実際に図の作成を行っている。引用の東洋文庫版のページをくると実に細密な図があり細部も判る。
1886明治19年、農商務省、「日本水産誌」三部作を企画。河原田はこのうち『日本水産製品誌』を担当。江戸時代から水産物の清国やアジアへの輸出は行われていたが、明治になっていっそう盛んになった。海産物は輸出の主要商品であった。
このころから、植物学者・農政家の田中芳男(信濃国飯田出身・のち貴族院議員)のもとで、日本水産関連の仕事に専念し前出の『沖縄物産志』をはじめ多くの水産書を著す。その間、水産博覧会審査官や、島根県、石川県、静岡県、岩手県などの水産巡回教師をつとめる。
1890明治23年、家督を継いだ弟が死去。
1891明治24年、農商務省を辞職し帰郷、過疎地の南会津地方の殖産興業に努める。新しい作物の導入や育成に努め、麻栽培と養蚕にも力を入れた。
また、地域物産を活かす交通の便を考え、地域の有志と野岩越鉄道の敷設を計画、測量にかかっていたが日清戦争のため中止になってしまった。
1894明治27年7月、日清戦争開戦 ~28年。
1896明治29年、河原田が発起人となり、田島銀行を設立、支配人を務める。福島県議会議員となるが年次はわからない。
1904明治37年、生家のある宮沢集落で火事があり、類焼。母屋や数棟の蔵が焼け、惜しいことに沖縄などから持ち帰った、海産物・標本類が焼失。
同年2月、日露戦争開戦 ~明治38年。
1914大正3年、南会津の地域振興に力を注ぎ、地方実業家として生き「水産翁」と呼ばれた生涯を終える。72歳。
参考: 河原田の著作は近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ にあるが、経歴を書いたものがなく殆どを 東洋文庫『沖縄物産志――附清国輸出・日本水産図説』解説を活用。同書「解説――河原田盛美と実業の世界」に感謝。 図も同書より。
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