宮城県において国会開設運動第一の人、村松亀一郎
今回の主人公、村松亀一郎がが弁護士資格を得た年の年表をみていたら、
“この日から満20年をもって丁年(成年)とする”明治9年4月1日太政官布告が載っていた。
近ごろ、荒れた成人式がニュースになっているが、大方は無事に行われているのではないか。遙か昔の成人式、自分は欠席。親に振り袖はいらないからと旅費をもらって九州一周した。まだ、新幹線もない時代、東京駅発の寝台車で長旅はきつかったが、いい想い出。昨夏、飛行機で長崎へ一っ飛び、平和像の前に佇み、あれこれ思う所があった。
村松亀一郎
1854嘉永7年10月、宮城県登米郡西郡村字西郡11番地に生まれる。父は村松固四郎といい、仙台藩士大内氏の家臣。
1865慶応元年、11歳。父が他郷で病死。幼い弟とともに祖母と母に育てられる。
1868明治元年、14歳。叔父の村松直人に漢学を学び刻苦勉励するなかで、東京に行って広く有為の士と交わりたいと母に相談したが許されなかった。
1871明治4年5月、母が紡いだ生糸を売って旅費にあて東京にでた。しかし、維新から日が浅く旅券が無い者には身の置き所がなく、ついに仙台に帰った。帰仙して、開業医・大槻良達の弟子となり一年余り医業を学びつつ、密かに上京を考えていた。
1872明治5年、再び上京して某医家の食客となり医業を学んでいたが先が見えず、半年後、横浜に赴く。外国人の書生になって学ぼうと考えたのだ。しかしツテがなく、横浜停車場の車夫となって働いた。
あるとき、客を乗せ走っていて疲れのため昏倒してしまった。そのとき、紹介してくれる人があり相州高座郡大矢村の小学校教員になることができた。2年間の教員生活で学資がたまり、また上京。
1876明治9年、東京神田五軒町の元田直が創立した「法律学舎」に入り、モンテスキューの万法精理・清律綱領・改定律令など内外の法律書を読み研究する。このとき民権説の利益や公平性を発見し、民権伸張に奔走することを決心した。
同年11月、司法省試験に合格し代言人(弁護士の旧称)となる。
元田の法律学舎が長野県長野町に第三分局を設け、選ばれて分局長となり長野に赴任。松本・上田で代言業務、訴訟事務に従事するかたわら法律学の普及に務めた。
1879明治12年1月、東京に戻る。9月、大井憲太郎が創設した法律学校・明法学舎の分舎を仙台に置くことになり主幹となる。
法学生徒を養成し訴訟事務を行おうとしたが、学問といえば漢学の時代で思い通りにいかなかった。それでもなお屈せず、田代進四郎や若生精一郎・高瀬真之輔らと提携して、西欧の政治書を講義し自由民権を説いた。
1880明治13年、河野広中らが仙台に来て民権説をとなえると、これに同調して「東北七州懇親会」を開催。
同年3月15日、大阪で第4回愛国社大会が開催され18日、会場を移し愛国社とは別に国会期成同盟が発足。大会は第1回国会期成同盟大会に切り替わり、最初から紛糾。愛国社いわゆる立志社の主流による国会開設願望書提出が行われなければならないとする土佐派と他の政社が対立したのである。
ともあれ、国会期成同盟規約が、福島の河野広中・岡田健長、宮城の村松亀一郎、土佐の植木枝盛・北川貞彦、福井の杉田定一、愛媛の小島忠里の7名により作成された。
1881明治14年10月1日、各地から国会期成同盟大会出席のため上京した有志委員の会合で、期成同盟と合体、自由党組織(総理・板垣退助)を決議する。宮城県からは村松亀一郎・二宮景輔・高橋伝が出席。
同10月12日、明治23年国会開設の勅諭(明治14年の政変)。この年は民権結社の設立・憲法案起草活動もっとも活発であった。
1882明治15年、時の福島県令・三島通庸は農民の先頭にたった河野広中らの自由党を弾圧し、福島事件が起きた。河野らは逮捕され、山口千代作・田母野秀顕が仙台に逃れてきた。村松は二人を匿い、旅費を渡して東京へ行かせた。
1883明治16年1月8日、村松の家に家に巡査が来、国事犯・兇徒嘯集の嫌疑で福島県・信夫警察署に連行される。次いで福島監獄に繋がれた。
5月、経禁錮3月罰金15円の刑を言い渡される。村松は納得がいかず上告し保釈となり、ひとまず仙台に帰った。出獄後、代言人としての名声が高まる。しばらくは政治を離れ本業の弁護業に務めた。
1884明治17年1月、宮城県会議員に当選したが告保釈中の身で、議場に臨めない。
1885明治18年2月、上告棄却となり福島に行き入獄。三ヶ月間、赤い獄衣を着る身となりさすがに辛かったが、同じ獄に官吏侮辱罪(三島通庸に)で服役中の福島県人・岡田健長ら政友がいたので励まし合えた。
5月22日、出獄。仙台からは田代進四郎・藤澤幾之助、福島の有志らが出迎えた。翌日、帰仙すると岩沼駅に政友らが出迎え、ここでも出獄祝いの席を設けてもらった。
「悪鬼の如き獄丁に平伏していた刑人は今日に至りフロックコートの洋服で諸名士に囲まれ幾百人の盛座の中にて美酒佳肴の饗応を受く、真に世は塞翁が馬にぞある」。
こののち県会に出席し、以後、9年間在職した。
1887明治20年春、大同団結を唱える後藤象二郎が東北を遊説、仙台にも来る。村松は大いに賛同して有志を集め尽力した。折しも、井上馨の条約改正論が出ると大反対、中止の建白書を提出したうえ各地を遊説、「国権を毀損する」として政府を攻撃した。
また藤澤幾之助・岩崎惣十郎らと東北懇親会を催し、政論社、抱一館を設立した。
1889明治22年4月、仙台市会議員に当選。5月、市会議長に当選。
1891明治24年、宮城県会議長に当選。
1892明治25年、第二回衆議院議員当選。
1902明治35年、第七回衆議院議員選挙 ~ 1915大正4年、第十三回衆議院議員選挙まに連続当選。
この間、刑事訴訟法中改正法律委員・鉄道国有法案委員・弁護士法中改正法律案委員・監獄法案ほか5件の委員・印紙犯罪処置法案委員。明治44~45年、治安警察法改正委員。大正2年~15年、動産登記法改正法律案委員・刑事略式手続法案委員・徴兵令改正法律案委員・教育改善及び農村振興基金特別会計法中改正法律案委員を務めた。
1925大正14年秋、衆議院議員選挙に落選中であったが特別大演習の大本営に召し出された。
10月、第十五回衆議院議員補欠当選。ここまで議員当選9回、在職年数20余年で没後、勲三等追贈。
住所:仙台市東一番町83番地
1928昭和3年9月22日、病で死去。77歳。
参考: 国立公文書館アジア歴史センターHP /『日本弁護士高評伝』日下南山子1891誠協堂 /『宮城県国会議員候補者列伝』藻塩舎主人1890晩成書屋 /『宮城県国会議員列伝:撰挙便覧』日野欽二郎1890知足堂 /『伊藤痴遊全集・第15巻』伊藤仁太郎1930平凡社
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