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2016年2月13日 (土)

明治・大正・昭和期の映画俳優、上山草人(宮城県)

 今日は2月11日、一ヶ月後は東日本大震災から丸5年になる。宮城県東松島市野蒜地区で被災当時小学6年生だった子が高校生になり、被災した旧校舎を前に震災を語り伝える新聞記事を読んだ。野蒜に行ったことはないが、以前のブログで1881明治14年の野蒜港にふれた事があり気になった。
 
 けやきのブログⅡ<2015.9.19 宮城県の自由民権家・大立目謙吾、仙台藩士の戊辰戦後、明治維新、ハリストス正教>

 震災に襲われた6年生の男の子、体育館に避難したが津波が流れ込んできて、人々がのみ込まれていったという悲惨な目に遭った。思い出すのも辛いと思う。かける言葉がない。しかし、がんばって震災前の野蒜駅前の賑わいを語り伝えているという。逆にこちらが励まされた。
 1896明治29年6月15日の三陸地震津波のとき、宮城県吉浜では波の高さが24メートル余りに達したという。この大津波は、青森・岩手・宮城の3県にわたって猛威をふるい数百の村落が被害をうけ目もあてられぬ惨状であった。今回とりあげた上山草人(かみやまそうじん)は宮城県生まれ当時12歳、今でいえば小学6年生、津波の記憶はありそうだ。

      上山 草人

 1884明治17年1月30日、宮城県遠田郡涌谷町で上山五郎の次男として生まれる。本名は貢。父は産婦人科病院を経営し宮城医学校教授をつとめた。
   母は父の愛人・角川浦路で、草人は親戚の家を転々とし10歳のとき父親宅に引き取られた。父親は厳しく愛情薄い幼少期だった。宮城県立第二中学校を卒業。
 1903明治36年、早稲田大学文科に入学。上京して父の友人である犬養毅家に寄宿し、在学中はテニスに夢中になった。このころ、新派劇の俳優・川上音二郎に共感する。文芸書を読みあさり、坪内逍遙の新劇運動に触発され男女劇研究生に応募。

 1905明治38年、日露戦争の鳳凰城陥落祝いの提灯行列の後に、父の訃報が伝えられ帰郷。一ヶ月後、再び上京するも境遇は変わり、牛乳配達をしながら大学に通う。苦学しているうちに病気になり、牛込の西方寺に間借りして静養することになった。そこへ三田千枝子が訪れてまめまめしく介抱した。千枝子は旗本の娘で新劇壇女優で芸名を山川浦路 (『結婚ロマンス』流浪の子著1919秀文社)。
 1907明治40年、大学を中退し東京美術学校に入ったが、のち中退する。
 1908明治41年、犬養毅の仲人で山川浦路と結婚。同年、東京俳優養成所第1期生となる。しかし、養成所の講師と衝突して排斥運動を起こしたため退所させられる。
 1909明治42年、化粧品開発に熱心だった草人は妻とともに「かかしや」という化粧品店を新橋に開店する。草人が開発した眉墨は人気を集め店は繁盛した。同年、坪内逍遙の文芸協会演劇研究所の研究生補欠募集に応募して合格。上山草人を芸名とする。
 
 1912大正元年、近代劇協会を*伊庭孝らと旗揚げ。俳優として「ファウスト」などを演じる。
     *伊庭孝: 明治期のテロリスト伊庭想太郎の養子。俳優・演出家・音楽評論家。
 草人は多くの俳優をかかえ、妻と共に苦しい新劇運動の旅をつづけ不動明王を信仰するようになる。内地はむろん満州へも渡るという生活を10年ほど続け、ついにアメリカに赴いた (『宗教体験実話』1933宇宙社)。

Photo
 1922大正11年、妻と長男とともにアメリカ方々を渡り歩いた末にロサンゼルスに落ち着き、日本語雑誌『東西時報』を発行し、ハリウッドへ行ってエキストラになった。
 1923大正12年、ハリウッドで映画スタートなり、ダグラス・フェアバンクス主演[バクダッドの盗賊]でモンゴルの王子役で共演。47本の映画に出たが殆どが日本人役でなく中国人の悪役などだった。
   写真: ハリウッド映画“キング・オブ・キングス”のペルシャの軍人役 “BIG-GAME”[明るくやさしく上山草人]http://biggame.sblo.jp/ 
 国際的東洋人として知られたが、トーキーがはじまると英語がしゃべれないため仕事が激減、帰国することにした。なお、妻の浦路は英語ができたため、草人が日本に帰国してもアメリカに残り、ロスで「Uraji」という名で化粧品業を営んでいた。

 1929昭和4年12月20日、天洋丸でサンフランシスコから日本へ向かう。船客は元満鉄総裁・林博太郎、元東京市長・永田秀次郎、大村海軍中将などで、その中に大阪化粧品商報社の今井安太郎・ゆう子夫妻がいた。
 草人は眉墨など美顔化粧術をやっていたとき今井の結婚式で花嫁ゆう子に眉墨をほどこした。今井は奇遇に驚き、旅行記 『世界一周旅日記』にそのエピソードを記している。

 1930昭和5年1月から、浅草・大阪・名古屋・京都・新宿の松竹座で「モンゴルの王子」を上演。
 1935昭和10年2月~3月にわたってロシア・モスクワで行われた第一回映画祭に松竹合名会社代表として出席。国債観光局政策の「四季の日本」を持参したが、ソ連の共産主義国体が日本の帝国主義と相容れない状態にあり日本の文化が理解されていないと報告 (『財団法人国際文化振興会事業報告書.昭和10年度』1937国際文化振興会)。
 1938昭和13年、「銃後の古巣飛び出して」慰問団に加わり軍地に赴く。東京を出発して長崎から上海へ渡る。以下その顔ぶれ。
 A班:松原操・赤坂小梅(歌謡曲)・赤坂喜美栄(三味線)・柳家権太楼(落語)・服部良一(器楽指揮)ほか5名。
 B班:川畑文子(歌謡曲舞踊)・渡辺はま子・伊藤久男(歌謡曲)・末広友若(浪曲)・上山草人(漫談寸劇)ほか5名。
 草人は三度ほど上海にいったが 『銃後の横浜:皇軍慰問号』(1938横浜市出動軍人後援会編)に寄稿
 ――― 最初は排日が表面化していなかったが、二度目は反感から排日のポスターが軒先に貼り付けられたりした。慰問にいったのに飛行機で運ばれたネタで天ぷらや刺身で労われ、旨いよりもったいなくて喉を通らなかった。戦いが激しかった跡には、墨痕もあらたに墓標がたちならび、名誉の戦史を遂げた新しい墓標の前に立つと涙が自然にでて止まらなかった。

 1954昭和29年、黒澤明監督[七人の侍]の琵琶法師が最後の出演映画で、晩年は不遇であった。
    同年7月28日、東京世田谷区の大脇病院で死去。70歳。
    墓所は青山霊園 。

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