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2016年2月20日 (土)

三閉伊一揆の指導者、三浦命助(岩手県閉伊医郡)

 2016年、東日本大震災後、初めて被災地で「東日本大震災復興の架け橋」と冠された岩手国体が行われる。復興の架け橋としたのは、「武士道」の精神を海外に広めた盛岡出身の *新渡戸稲造のことば「我、太平洋の懸け橋とならん」にちなんだものという。
 大災害が起こってからもう丸5年になるが、被災地にとっては痛手は未だ癒えず、復興は道半ば。国体が成功して大きな復興支援が得られるように。
  *新渡戸稲造: 「札幌遠友夜学校(新渡戸稲造)と有島武郎」
  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/04/post-3c9a.html

 自然災害は恐ろしいが、苛斂誅求の失政も怖ろしい。苛酷な租税取り立ては人々を苦しめ一揆の引き金となる。百姓一揆というと江戸時代と思いがちだが、幕末明治の方が多く全国各地でおこった。岩手県でも三閉伊通一揆という大一揆がおこり、指導者・三浦命助(めいすけ)がよく知られる。
 三浦は南部藩領閉伊郡栗林村の出身。その上閉伊郡は岩手県東部、今の釜石線の沿線地域
 ――― 北上山系をもって脊梁となし、東西に分岐蜿蜒(えんえん、うねうねとして屈曲)する支脈の横谷と猿ヶ石流域に形つくられし盆地とによりて開かれし一地域。現在、遠野・釜石・大槌の三町、綾織・子友・鱒沢・宮守・達曾部・附馬・牛松・崎土・淵青・笹上郷・甲子・鵜住居・栗橋(旧橋野村栗林村)・金沢の14ヵ村を管轄(『上閉伊郡志』1913岩手県教育会)
 この地域は春になれば遠野の桜、観光名所の数々、世界遺産・橋野鉄鉱鉱山高炉跡など見ものがあり、なかなか佳さそうな地域。東日本大震災の痛手からどこまで復興しただろうか。そしてまた、この地域には自然災害とは別に困難な歴史があった。

     三浦 命助

 1820文政3年生まれ。三浦命助はもと菊池氏、故あって外戚の姓をなのる。陸奥国南部藩領閉伊郡栗林村の肝煎(きもいり、名主)の甥。代々六右衛門を襲名、号を明英。
   成長すると、遠野に出て南部藩士・新田氏に入門、四書五経を学んだ。
 1837天保8年、17歳から20歳にかけて秋田の院内鉱山で働いたらしい。
 1840天保11ねん、20歳のころから三閉伊(さんへい)通とよばれる盛岡藩領の三陸沿岸の農漁村を回って荷駄商いを行っていた。命助は「機略よく人を制し」たといわれ客に好まれたろう。ほかに米穀商を営んだという話もある。

 1844~1847弘化年間、盛岡藩主の苛斂誅求にたえかね一揆がおこる。南部藩主・南部利済は財政困窮により重税と御用金を課した。
 1837天保8年、海産業に対し米価と同じ重税を課したが、中でも三閉伊通 (野田通宮古通大槌通)が他より重かった。そのため、浜岩泉村(現田野畑村)の牛方弥五兵衛が首領となり、1万2千人余りが遠野に押し出し、御用金の撤廃をはじめ26ヶ条の要求を提出した。
 これに対し、南部支藩・遠野南部家は御用金の全免と12ヶ条を許可、後は追って調査し許可すると回答した。そして、家老横沢を罷免、藩主利済は隠居したが、一揆首謀者の弥五兵衛を捕縛、1849嘉永2年、斬殺した。
 そればかりか、遠野強訴が沈静すると南部利済は背信、公約を破棄して悪政を続けた。しかも、幕府の御用や参勤交代費が足りないとして負債の打開に新税・増税をし、さらに御用金を課した。

 1853嘉永6年3月、ふたたび数百人の農民が野田代官所を襲撃した。ところが指導者の忠兵衛が急死したため頓挫、しかし再び陣容をととのえる。三浦命助が、「これ経世済民の挙なり」と檄を飛ばして一味を募りこれに応じ、ついに推されて首領となり遠野に到る。
 遠野南部氏に訴状をだしたが、願いは叶わなかった。ために三浦ら一揆農民は仙台領気仙郡に向かった。のぼり旗、槍隊・棒隊、隊列を組んで浜通りを南下しながら資産家に軍資金や食料を出させ、出さないと家屋を打ち壊して歩いた。
 田老・宮古・山田と各村を押し出すにつれ大群衆となって大槌通に押し寄せ、釜石に集合したときには、一揆の人数は1万6千余人にも達した。約半数が仙台領気仙郡唐丹村への越訴に成功、仙台藩伊達氏に政治的要求と具体的要求49ヵ条を提出し訴えた。三浦命助は仙台藩、盛岡藩との交渉を展開していくなかで、指導者として活躍する。

 「三閉伊通の百姓を仙台領民として受け入れ、三閉伊通を幕府直轄地か、もしできなければ仙台領にしてほしい。役人が多いから減らしてほしい。金上侍を元に戻してほしい。御用金その他臨時税が多すぎる。租税請負を廃してほしい」などと要求したのである。

 遠野南部藩は仙台に赴き百姓の引き渡しを要求したが、仙台藩は預かり百姓として保護するとした。それで、南部藩は農民の願い通り、一揆の要求すべてを受け入れ、指導者の処分をしないことにして一揆農民を帰国させた。
 こうして、近世最大の百姓一揆は収束したのであるが、三浦命助は藩吏に憎まれ家に落ち着くことができなかった。それどころか、藩側から狙われ、村内の紛争にこと寄せて弾圧された。

 1854安政元年7月、三浦は村を脱出、仏門に入るなどして京阪地方を放浪した。
 1856安政3年、京都に上る。村を出てから10年以上たち、二条家家臣となった三浦は帰郷することにした。しかし逃走中の身にかわりはなく、領内の花巻に現れたところを捕えられた。公金横領と脱藩という罪で9年間、盛岡の獄中にあった。
 明治維新まであと4年という1864元治元年、病で牢死。44歳。 妻子に宛てた「獄中記」長文の書簡は、幕末期農民思想の特徴をよくあらわしているという。

    [三浦命助の碑

 1963昭和38年、栗林町民一同により生家の脇に建立された。揮毫は釜石市長をつとめたジャーナリスト鈴木東民

   参考: 『コンサイス日本人名事典』三省堂/ 『日本史辞典』角川書店/ ネット2013年“三浦命助没後150年記念イベント(東北物語)/釜石市立栗林小学校”

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