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2016年2月 6日 (土)

明治の教育家・美術保護者、髙嶺秀夫(福島県)

 前回、「唱歌」が気になって伊沢修二を取り上げたら作曲家ではなく、文部省の役人、東京高等師範学校校長という経歴で意外な気がした。調べてみないと判らない。また解ると面白いなと思いながら、次は福島県の人物をと考えていると、偶然にも伊沢と留学し共に師範教育に尽くした会津若松出身の人物がいた。髙嶺秀夫である。

 1854安政1年、福島県会津若松市で生まれる。父は会津藩士・髙嶺忠亮。藩校日新館で学び漢学で頭角をあらわし*南摩綱紀とともに藩主松平容保の側近となった。
    * [会津藩士のカラフト、明治の教育者・南摩綱紀] 
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/12/post-4b87.html

Photo
 1868明治元年、戊辰戦争のとき、父は早く亡くなり母に育てられた秀夫はまだ14歳、白虎隊に加われず、御小姓として藩主松平容保の傍らに侍った。会津若松で籠城中、日夜砲煙弾雨に包まれた。
  秀夫の母は、舅姑と秀夫の弟妹を連れて隠れ、一時は死を覚悟したが生き延びることができた。秀夫ら会津藩士は戊辰の戦に敗れ東京に送られ謹慎となった。赦免後、秀夫は沼間守一の私塾に通い英語を学ぶ。明治のジャーナリスト・政治家として沼間を知る人も多いだろう。旧幕臣で戊辰戦争では会津に行って戦い、また子弟に語学を教えた縁もあるのだろう同塾では、山川健次郎・柴四郎らも学んだ。
 1871明治4年、藩命(斗南藩)により慶應義塾で洋学・漢学を学び、のち、教員もした。
 1874明治7年、福澤諭吉の推薦で文部省に出仕。
 1875明治8年7月、伊沢修二・髙嶺秀夫は師範教育研究のためアメリカ留学を命ぜられ、伊沢はマサチューセッツ州ブリッジ・ウォーター師範学校、髙嶺はニューヨーク州オスウィーゴー師範学校で学んだ。
 1876明治9年7月、オスウィーゴーを卒業。その後もアメリカで、翌年3月帰国するまで博物・心理学・生物学の学習に全力を尽くした。
 1877明治10年夏、ペニキーズ島で自然史のアンダーソン学校に通い、コーネル大学の動物学者バートワルダーの下で一学期間勉強した。当時、社会的反響をよんだダーウィンの進化論を知り動物学を学んだ。他にも動物学校などで研究し動物学を修めた。

 1878明治11年10月、帰国後、伊沢修二・東京高等師範学校(現筑波大学)校長補となり、髙嶺秀夫・校長補心得となる。

   [伊沢・髙嶺時代の改革] ――― 師範教育における最新の知識と識見をもって、東京師範学校の改善につとめた。2月、教則を改正、ついで9月~10月、諸規則を改正して師範学校としての組織を整えた。小・中学普通学科の教員を今迄より養成する場所とし、なお学科と教授法とを分離しないようにした。今迄のように生徒に本を読ませるだけでなく、生徒の自発性を重視した。また、格物学・史学哲学・数学・文学・芸術の5部門をたて、履修する課程を一目瞭然にし、修業年限も一年半延長した。
    (『創立六十年』1931東京文理科大学・東京高等師範学校共編)

 1879明治12年3月、伊沢修二校長に、髙嶺秀夫訓導兼校長補に任ぜられる。
 1880明治13年10月、伊沢・髙嶺「教科書編纂ニ付意見書」を提出、児童の心理的特性に留意すべき旨を主唱す。
 1881明治14年7月、伊沢文部省少書記官、髙嶺秀夫校長兼教諭に任ぜらる。同時に、軍人勅諭に関係が深い文部省御用掛・西周が校務嘱託となった。
 1882明治15年4月、「*ペスタロッチ主義教授法の普及浸透を期し、現職教員講習組織化の旨を稟議」(6月7日、師範学科取調員を募集)。わが国師範教育の基礎を確立し、注入主義を廃し、ペスタロッチの開発主義教育を主唱して教育会に影響を与えた。
     *ペスタロッチ: スイスの教育改革家。ルソーの『エミール』を愛読。

 1885明治18年、東京女子師範学校を合併、併せて付属する高等女学校・女児小学校・幼稚園をも所属となり、髙嶺はこれらを管轄したが、明治23年再び分離される。
 1886明治19年3月、『新教育論』(ゼームス・ジョホノット著・髙嶺秀夫訳)教授原理と実際の訳著全4巻を東京茗渓会から刊行。
  髙嶺に替わり同じ会津出身、陸軍省総務局制規課長陸軍歩兵大佐・山川浩、校長兼任となる。山川はまもなく専任校長となり12月陸軍少将に進んだ。
 1891明治24年8月、山川に替わり髙嶺秀夫、教授・校長兼教授に任ぜられる。
 1893明治26年9月、髙嶺に替わり*嘉納治五郎校長に任ぜられる。
     *嘉納治五郎: 教育家・講道館柔道の創始者。
 1899明治32年、東京美術学校(現東京藝術大学)校長を兼務。

 1901明治34年、「髙嶺秀夫氏家庭の安全弁並ドクトル、ス、ビルの事」
                                  (『家庭の教育』1901読売新聞)
  ――― 体育の用を兼ねて(髙嶺家)庭園の芝生を広くし大弓射的場を作りてパラレルバーを設け、且つバーは高低二段を設けて長幼各その体に応じ、その下には砂を敷き相撲土俵の代用に充てしむなど用意、体操、テニス、球投げ、二人三脚など日々運動の絶え間なからしめ・・・・・・子息三人いずれも皆よく技に長じ・・・・・・夫人も洋楽を学びたれば、食後の如きは一家団欒の際、常に夫人の音楽を聴き洋々春の如き中に談笑するなり
 ―――顧みれば今世のいわゆる紳士と称する者多くは家を捨て妻子を忘れ、己独り放蕩遊楽に耽るを・・・・・・髙嶺氏が家庭内の遊技和楽が善く平生勉学の鬱を散じて、その身内の安全を保つを以て蒸気機関の安全のため、弁を設けて時どきその気を漏らすに比し、旅行外遊の費用を要するも、善く身体を健康にし精神を爽快にし、新たに一層の勇気を喚起するものもあるを以て、これを医薬の黄金を投じてその効果を収むるに比し、名づけて安全弁といい、これを称してドクトル、ス、ビル(医師の書付)となし
      

 1907明治40年、第一回文展(現在の日展)審査員。
   近代日本の美術の保護奨励にも大きな足跡を残した。髙嶺は日本の伝統美術に造詣が深く、浮世絵の収集は3千点以上にもなり、浮世絵の研究を通して*フェノロサとも交遊していた。
    *フェノロサ: アメリカの哲学者・美術研究家。明治11年、御雇外国人として来日。
 1910明治43年、57歳で死去。葬儀には各界から千人以上が参列し別れを惜しんだ。
            墓所は東京豊島区駒込の染井霊園。

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