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2016年3月12日 (土)

民権派教師・若生精一郎とその兄・若生文十郎 (宮城県)

 1847弘化4年、仙台藩槍術指南の若生徳之進の第3子に生まれる。兄は若生文十郎。
   幼くして漢学に志し和漢の書を読み藩校養賢堂で学ぶ。傍ら武術に励む。
 1869明治2年4月14日、若生文十郎、官名意により切腹。28歳。大聖寺に葬られる。文十郎は戊辰戦争時、軍務局副頭取・近習兼郡奉行で奥羽列藩同盟に奔走し活躍したが仙台藩は降伏、ついに
「世運の極まるところ方向を誤り、新政府軍によって切腹を命ぜられた」。若生文十郎の名は、『仙台藩人物叢誌』殉難の項に短いながら記されている。
 若生家は士分剥奪となり、精一郎は零落して貧困となった。それを見かねた友人らが「官途によって一時窮を免れんことを」と進めたが精一郎は聞きいれなかた。兄と同じ熱血漢の精一郎は困難な状況にあっても、兄の命を奪った新政府の官吏になろうとは思わなかっただろう。

 1874明治7年2月、小学校教師を育成する官立宮城師範学校に入学。学資は官費で寄宿舎があり、募集定員は150名、年齢は20から~35歳であった。地理・史学・算術・物理・画学(絵、地図)・体操・唱歌・博物・修身などを2年間学ぶ。
 1875明治8年、全科を卒業し7月19日宮城県派遣となる。

 1876明治9年4月、訓導(小学校教員の旧称)として四番小学校(培根小学校北四番丁木町通角)赴任。若生は校長相当(当時は校長という職名がなかった)二代目、初代の白極が培根小学校とした。
 培根(ばいこん)の意は、幼少期に基礎・基本をしっかり身につけ、将来さまざまな方面で才能を発揮させるというもの。この考えが幼稚園開設につながる。
    6月、宮城県令・宮城時亮宛て
「培根小学校へ裁縫仮規則を設けたく願書」を提出、明治11年4月、裁縫科を設置。
 子守のため授業を受けられない女児に「児を負いたるまま無月謝」で通えるようにした「子守学校」である。若生ら教師は幼児教育だけでなく女子教育にも目を向けていた。
    12月12日、若生は県に、木村敏(養賢小学校教諭・仙台師範学校長兼務)ら7名で、学齢外の年長青少年のための「夜学校設立願書」を提出。

 培根小学校生徒ははじめ2、30名に過ぎなかったが、3年後には500名になり校舎も新築。度量が大きく小さいことにこだわらない若生、児童を愛し児童からも慕われた。作文や社会科教育に熱心だったが、作文は丁寧に添削をしたので、児童は授業を待ち焦がれるほどで、宮城県下教員の随一と称された。
 1878明治11年、『小学作文類題』(松風竹影書楼)を編集発行、その序文に、小学校で作文の課題を与えるのに苦心してとある。実にさまざまな題があり、順に見ると明治初年の世相、若生の関心事がかいまみえ興味深い。
 次はほんの一例、
 ――― 春夏秋冬季節。手簡文:暑・寒中見舞い・友人の暑邪病を問う文・月夜友を招く文。   雑の部:富士山・博覧会・公園・新聞・算術・県会。  論説の部:教育の盛衰は国の強弱に関する・少年は草木の花時の如し・戦場にある友人に与うる文・花より団子とは如何なることなる・人の権利とは如何なるものなるや

    6月7日、培根小学校の同僚・矢野成文が、まだできてまもない東京女子師範学校附属幼稚園を見学するため上京。若生は矢野の附属幼稚園の開設計画に理解を示し協力する。
    10月、仙台に「鶴鳴社」を設立。

 1879明治12年3月27日、仙台区公立木町通小学校授業雇となる。
    6月、同校訓導白極誠一と協力して同校附属幼稚園を設立。この年、教師を辞職。
    8月、「宮城日報」創刊。若生が社長、社員に虎岩省之、塚本四素ら。

 1880明治13年、村松亀一郎(のち衆議院議員)、鶴鳴社員・田代・高瀬・浅尾らと「本立社」を結成。時、天下の政党こもごも至り交わるという情勢で、大阪に愛国社、福島に石陽社求我社北辰社、至るところ政談せざるはなしという情勢だった。
 若生は愛国社の*国会期成同盟第二回大会に東北有志の総代として上京、宮城県1330名、山形県76名の署名をもって参加。天下の志士に交わり論じた。また、政府に「国会開設哀願書」を提出したが却下された。
   *国会期成同盟: 田母野秀顕とその妻  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/03/post-2829.html
   10月、『宮城県地誌要畧』(桜田憲章著・若生精一郎閲)出版。
   11月、仙台に帰った若生は「宮城日報」を白極・桜田に任せて病気療養をする。
 ちなみに宮城日報は、福島毎日新聞と合併して改題「仙台福島毎日新聞」、さらに「仙台絵入新聞」ついで「河北新報」となる。

 1881明治14年4月、古川小学校の校長となるも9月、病気のため辞職。しばらく志田の山中で養生していたが、治らず再び仙台に帰ったが、政論をしなくなった。暮らしぶりは、まだ30代前半ながら、月琴を弾じ絵を描き、風月を楽しんだというが、家計を度外視して借金が重なっていた。それでも何事もないかのように暮らし、養生していたのだが、病に勝てなかった。
 1882明治15年3月25日、労咳によりまだ35歳という若さで死去。

    参考: 『東北各社新聞記者銘々伝』加藤甫1881章栄堂(宮城県下白石町)/ 前村晃・佐賀大学文化教育学部教科教育講座<千大区木町通小学校附属幼稚園の開設期の景況と史的位置> / 『明治時代の新聞と雑誌』西田長寿1961日本歴史新書

       **********

 2016.3.11東日本大震災・原発事故から丸5年。 
 毎日新聞2016.3.10“小中学生2万5000人減、岩手・宮城・福島3県から流出、少子化に追い打ち”の記事。それでなくとも日本は少子化が進んでいるのに、復興未だしの被災3県は尚更なのだ。
 東北は戊辰戦争の昔からたいへんな思いをしてきている。たまたま前回は福島の田母野秀顕、今回は宮城の若生精一郎・文十郎兄弟をとりあげたが、同時期に死去している。戊辰の困難を超えて高い志を掲げて活躍のさなかに斃れた東北の青年がたくさんいた。青年の早い死は惜しんで余りある。それから、ほぼ150年後、東日本大震災・原発事故が起き、今又、東北は苦労と困難の中にある。せめて、その事を忘れないで、ささやかながら応援したい。

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