活版印刷・鉛版のはじまり、加藤復重郎(江戸)・古井多助(長野県)
――― 永らく文撰工や植字工としてはたらいてゐた。小説など書くやうになつても活字は、鐵砲や、蒸汽機關や、自動車と一緒に、潮のごとく流れこんできたもので・・・・・・有難いとも思はぬやうな、恩澤に馴れたものの漠然とした無關心・・・・・・表現する文字が出來、多數の他人と意志を疏通、後世にまで己れの意見をつたへたりするやうなことが、どんなに大したことであるか
――― 加藤復重郎といふ日本最初の鉛版師、紙型をとつて活字面を鉛の一枚板に再製する工程であるが、紙型は雁皮紙を數枚あはせれば凹凸が鮮明になる、スペースと活字面の高低にボール紙を千切つて加減をとればいい、それを發見するまでの悲喜劇を織りこんだ苦心の徑路は、たとひ印刷關係でないものでも身うちの緊きしまる思ひがする。
――― 活字の字形を書いた竹口芳五郎といふ人は、平野富二に見出されるまで、銀座街頭で名札を書いてゐた、最初のルーラーの研究者・境賢治とか、活字ケースを創つた山元利吉の苦心談、近代日本の印刷術が完成するまでのたくさんの有名無名の發明者、改良者の苦心があつたが・・・・・・發明者とか改良者とかいふ人が、多くは産を成したわけではなく窮乏離散・・・・(『光をかかぐる人々』日本の活字1973徳永直)
写真、明治初期の印刷風景。(『印刷製本機械百年史』より 加藤 復重郎
1848嘉永1年、加藤復重郎(かとうまたじゅうろう)、江戸浅草に生まれる。
1868明治1年、安政の開港から9年経った横浜は、外国商館が建ち並び文明開化の先端をいく新開地であった。居留地から「タイムス」「ジャパンヘラルド」「ガゼット」「エキスプレス」、1870明治3年には「ジャパンメイル」「ファーイースト」など外字紙が発行された。日本では活版印刷が始まったばかりで同年、鉛活字を使った「横浜毎日新聞」が創刊されたばかりである。
そのころ、加藤復重郎が横浜の「ジャパンヘラルド」および「ジャパンメイル」につとめ、外国人の職工から活字の鋳造・活版印刷・紙型鉛版などを学び、紙型鉛版の開拓につとめた。
1873明治6年、加藤は知人で工部省在勤の阪谷芳郎(政治家・貴族院議員)から、勧工寮活字局製造の活字類の販売をすすめられた。その後、活字局は印書局となり加藤は印書局売りさばき方となり、かたわら印刷の仕事もする。
印書局は、幕府以来の官営活版技術と設備の大半を引き継いで、1872明治5年9月に発足した政府刊行物印刷の国立機関。鋳造活字・紙型鉛版などの民間へ販売もしていた。その販売広告の主は「印書局活字売捌方 加藤復重郎」である。
1874明治7年、加藤は、当時長崎の活版印刷の創始者・本木昌造のもとから東京にきていた平野富治と親交を結び、平野活版所(のち東京築地活版所)にいって、紙型鉛版の技術を教える。これに遅れること一年半、古井多助も紙型鉛版に成功する。
1876明治9年11月、印書局は大蔵省紙幣寮所属となり、新工場が出来るとともに蒸気機関を据え付けて動力印刷を開始する。
このころ加藤は加藤活版所を設立、各所の印刷を引き受ける。
1877明治10年、『売薬規則』、『埼玉県管内区分宿町村名録』などを印刷する。
1882明治15年、薬酒商の機関印刷所として浅草森田町10番地に積文社を設立、薬種方面の印刷物を独占した。
1884明治17年3月、漢文『仰天嘆論』を著述刊行。
(近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ )
1914大正3年、死去。66歳。
古井 多助
1854安政1年、長野県に生まれる。
1873明治6年、19歳で上京。上野広小路の活字製造業・蜷川初三に弟子入り。活字製法に従事研究するが、蜷川が廃業。二人一緒に銀座4丁目の印刷所・博文社に入る。
古井は博文社社長の長尾景弼から洋書を見せられ、ステレオタイプの研究を命ぜられる。外国図書を手引きに紙型鉛版の製法を研究、工夫したが実用に至らなかった。そのうち脚気になり未完成のまま退社。
1874明治7年、「読売新聞」が日就社印刷の子安峻らにより創刊された。「読売」は小新聞の元祖で娯楽と雑報が中心であった。当時の新聞は、まだ漢学的教養をもつ一部知識層の専有物に過ぎなかったので、読売ははじめから大衆を対象として口語体でふりがな付の平易な新聞を発刊したのである。
1876明治9年1月、古井は「読売新聞」に入社。入社してすぐに、印刷技師・平山耕雲に命ぜられ、新聞4ページの紙型鉛版製作にとりかかる。苦心の末、3ヶ月で完成。同年11月11日の読売新聞は、初めて紙型鉛版によって印刷された。
ふだんは前日から刷りはじめて翌日、午後までかかる印刷が、この日は朝までに完了。工場関係者は初刷りの新聞を手にして喜びあった。古井は、最初美濃紙をつかい、ついで雁皮紙、ボール紙と実験を重ね、何枚も糊づけしたり、組み版にかぶせた上から刷毛で叩いたり、炭火で乾燥するなど、さんたんたる苦心をした。やっと成功したものの新聞4ページの型どりに2時間以上もかかり、かえって手間どる状態だった。平山の指示で少年工4人を古井につけて養成、所要時間を1時間に短縮することができた。しかし、鋳込みが不完全なため印刷は不鮮明になりがちだった。
1877明治10年、読売本社の銀座移転後、鋳込み機械を備え、全面的に紙型鉛版に切り替えた。このころ発行部数が増加し、手刷りが限界にきていた。大垣藩大砲鉄砲鋳立掛をつとめていた平山耕雲は、蒸気動力による印刷を考え、川蒸気の機関を買い入れ蒸気印刷をはじめる。紙型鉛版とともに新聞界における画期的な技術革新である。
やがて古井多助は退社、神田で自ら印刷所を経営。晩年は、東京鉛版工業会の顧問をつとめた。
1832昭和7年、78歳で死去。
参考: 『印刷製本機械百年史』1975印刷機械製本機械工業会/ 「読売新聞の誕生」/『コンサイス日本人名事典』三省堂/『印刷産業綜覧』三谷幸吉1937印刷往来社
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