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2016年3月19日 (土)

自由民権家弁護士、伊東圭介と煙山八重子(岩手県)

    伊東圭介

 1857安政4年8月5日生まれ。盛岡藩目付役、伊東元右衛門の長男。
  盛岡藩の学校*作人館に入学。ここで原敬・佐藤昌介・阿部浩・東条英教・那珂通世・田中館愛橘なども学んだ。
   *作人館:  “東洋史学者・那珂通世と分数計算器(岩手県)” https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/02/post-fbfd.html

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 1873~1874明治6~7年頃、東京にでて小原洋学塾学ぶ。まもなく、父の命により帰郷して家督を相続、県の聴訴課(現在の裁判所)に勤める。このとき県令・島惟精からフランス民法の本を与えられる。
 伊東は、民法――主として国民の私権の通則を規定した法律―――に感ずる所があり辞職して、可明舎を設け法学を研究する。
 1875明治8年、代言人規則が公布され、伊東は受験して及第、免許代言人となった。
官尊民卑の風潮が強いなか伊東は弱い人々の味方となるため代言人資格を取り活動。貧しい人々の依頼を進んで引き受け、自身の正義感に基づいて処理したので司法官からも好意を持たれた。

 1876明治9年、協同社を設ける。当初は法律研究を目的としていたが、次第に自由民権についての論議となる。社員は小山英武・布施長成ら代言人と公証人の梅内直曹ほか。
 1878明治11年、盛岡の自由民権運動団体、求我社鈴木舎定は東京で板垣退助・星亨・河野広中らと接触していたが、郷土の思想統一のため盛岡に帰郷。
 1880明治13年、民権自由論はいよいよ盛んになり、国会期成同盟第2回大会が東京で開催される。

 1881明治14年、伊東圭介と鈴木舎定は協同社・求我社を合併して自由党盛岡支部を興す。伊東は演説に長け政談演説会には必ず演壇に立ち傍聴者を感動させた。
 期成同盟大会に出席した有志委員が会合して自由党組織を決議する。鈴木は岩手を代表して出席、自由党大会には星亨らと並び常議員席に就き日本の政治を担う大器と目されたが、志半ば、29歳で没した。鈴木の没後、伊東が求我社の中核として活躍する。同年、次女・八重子(のち煙山専太郎夫人)生まれる。

 1884明治17年、盛岡の長松院で政談演説会が開かれ、伊東は
「黒田内閣顧問の職務につき誹毀」したとして官吏侮辱罪に問われ、重禁錮2ヶ月罰金10円に処せられる。政府を真正面から攻撃する伊東はたびたび禁固刑に処せら演説を禁止された。
 その後、大同団結派に賛成し過般、後藤象二郎の入閣に際しては弁解委員となり、九州地方を遊説する。
 1887明治20年10月、後藤が民間政客をあつめておこした大同団結運動大会に出席。
  同年12月26日、保安条例公布・施行。伊東圭介は、片岡健吉・中島信行・中江兆民・*横川省三らとともに皇居周囲三里以内から追放となる。追放された人数は570名。
   *横川省三: “明治の志士・日露戦争の軍事探偵、横川省三” https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/07/post-5867.html

 1890明治23年7月1日、第1回衆議院議員総選挙。岩手県第2区(閉伊・九戸地区)から立候補、当選。
 1894明治27年9月1日、第4回総選挙に当選。同年9月13日、日清戦争のため大本営を広島に移す
   伊東は、すでに政治活動もできないほど体が衰弱していたが、広島で開催された臨時議会に出席。そのためこの後、12月22日召集された第8議会にはとても出席できる状態ではなかった。しかし自分の死期を悟った伊東は最後まで議会に出ようとして上京した。
 1895明治28年2月5日、議会開会中、同士の坂本安孝の家で逝去。伊東圭介まだ38歳、次女の八重子14歳、残された妻子の苦労も偲ばれる。

   参考: 『岩手県国会議員列伝・私撰投票』村上繁次郞1889哲進堂 /岩手県教育委員会・歴史文化課HP/ 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/

          **********

    煙山八重子けむやま やえこ

 1881明治14年、伊東圭介の次女に生まれる。盛岡女学校(現盛岡白百合学園高校)卒業後、明治女学校普通科を経て、母校盛岡女学校などで教鞭をとっていた。夫の煙山専太郎は、早稲田大学史学科充実の功労者として知られている。
 1923大正12年9月1日、関東大震災が発生。八重子が住んでいた地域はほとんど被害を受けなかったが、下町を中心とした地域の惨状は目を覆うばかり。夫や帰る場所を失い、子どものミルクもなく困り果てた母親たちの姿を目の当たりにした八重子は、「何か私たちにできることはないか」と、友人の新渡戸コト(新渡戸稲造の養女)、塚原ハマ(盛岡女学校の同窓生)らと立ち上がる。3人は基金づくりに奔走、内務省、東京市、大震災善後会からの援助を得て、東京巣鴨上富士町に20畳ほどのバラック建て母子寮「愛の家」を設立、被災した母子たちを救護した。
 また、単に被災婦人を救護するだけにとどまらず、平時であっても扶養者を失った母子の生活の安全と向上を計ることが必要であると考え、託児所、授産および職業相談なども行い、日本における母子生活支援施設の礎を築いた。「愛の家」の活動は、公的な団体からの支援ばかりでなく、個人寄付やボランティア、友人たちの協力、そして夫・専太郎の理解により支えられた。
 1955昭和30年、死去。
   参考: 岩手県立図書館 <岩手復興偉人伝>       https://www.library.pref.iwate.jp/0311jisin/ijinden/02.html 

 
   煙山専太郎

 1877明治10年、岩手県生まれ。明治・大正・昭和期の政治学者。
 東大卒業後から早大にあって国際政治史を講じた。卒業論文でもあった「近世無政府主義」は当時ロシア・ナロードニキの唯一のガイドブックであり、幸徳秋水・宮下太吉・管野すがらに大きな影響を与えた。
 1954昭和29年、死去。著書多数。
     参考: 『コンサイス日本人名事典』三省堂

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