« 伊能嘉矩・『台湾文化志』 & 坪井正五郎・弥生土器 (岩手県 & 江戸) | トップページ | 自由党員たびたび保釈、安瀬敬蔵(福島県) »

2016年4月23日 (土)

明治期、熊本出身二人の池辺、池辺義象・池辺三山

 ――― およそ信義に大節の信義と小節の信義とあり、是非順逆の理をわきまえ、盡すべき所に盡すは、大節の信義なり。私情にかられて小節の信義に身をゆだね、遂にあらぬ禍を蒙り、千載の下に、汚名を流すような事あるべからず・・・・・・加藤清正の如きは、常に「臨大節不可奪」(大節に臨み奪うべからず)という語を守り、私憤私情を忍び、武士道の神とさへ仰ぎ崇められぬ。
                         (池辺義象1905明治38年)

 2016年熊本地震。熊本県と大分県も大きな地震が襲った。一週間経っても地震が続き、強い雨にも見舞われた。映像を見てあまりの惨状にことばがない。実際に被災されている方々の衝撃と困難はいかばかりか。どうかご無事で、祈るばかり。
 はるか以前、熊本に行ったとき雪で交通止めになり阿蘇山を観光できないことがあった。南国で雪! そのときは阿蘇山に行けなくて残念だったが、後年、緑の阿蘇山を訪れ、あの時の雪の阿蘇は貴重な経験かもしれないと思った。
 熊本城に10年位前に行ったが、さすが築城の名手・加藤清正が築いただけあって素晴らしく風格もある。これぞ城!と思った。それが、今回の激震で至るところ崩れ落ち・・・・・なんと無惨な。
 熊本城には清正の築城以来、さまざまなエピソードがある。なかでも西南戦争については城外の激戦地も含めて、広く日本中に語り伝えられている。

 

       池辺三山 (いけべさんざん)

 

 池辺三山こと吉太郎の父は、肥後西郷といわれた熊本藩士・池辺吉十郎、肥後国玉名郡の人。
 明治維新後、熊本藩少参事となった。隠居後、子弟の教育に携わっていたが、西郷隆盛が挙兵すると同志と応じた。その西南戦争では、熊本隊隊長として戦ったが、政府の徴兵軍隊に敗れ、後事を図ろうと脱走した。しかし捕らえられ、長崎臨時裁判所で死刑の判決、斬罪された。

 1864元治元年3月12日、池辺三山、本名・吉太郎は熊本京町宇土小路で生まれた。
 1877明治10年、父の死後、13歳で親友の国友重章の父・国友古照軒に漢学を学んだ。
 1881明治14年、上京。中村正直(敬宇)の同人社慶應義塾に入ったものの学資が続かず辞め、翌15年、佐賀県庁職員となった。
 1884明治17年、再び上京して旧熊本藩主細川家の学生舎監となった。

 1888明治21年、大阪に移り、東海散士柴四朗『経世評論』編集と論説を担当した。
  当時、幕府が締結した「不平等条約」を対等条約とするための条約改正問題が盛んに論議されていた。その条約改正問題の中心人物の一人、谷隈山中将に会うため、三山は東海散士に同行して、経世評論記者として谷をインタビュー。
 この谷干城こそ西南戦争で熊本鎮台司令長官として熊本城を守備して西郷軍を退けた将軍である。谷は三山に応えて
 「近来、後藤象二郎が奔走してる大同団結運動について困難であるけれども、政治がよくないときは矯正する勢力はいつの時代でも必要であろう」と。これを聞いた三山は
 「吾人が中将に望む所は亦此にあるなり」と条約改正に期待をよせた。ちなみに、税権の回復を達成したのは1911明治44年である。
 その日、谷は日記に「十二月三日土佐を発す。同四日神戸に着す。此日柴氏も来る。池辺吉太郎も亦然り、吉十郎氏の子なり」と記した。刑場の露と消えた敵将、池辺吉十郎の息子が条約改正問題で目の前に現れたのである。吉十郎の子を前に、谷の胸をどんな思いがよぎったろう。

 1890明治23年、『経世評論』経営不振のため上京、陸羯南『日本』新聞に入社。
 1892明治25年、旧藩主家の若殿・細川護成(もりしげ)の補導役としてフランス・パリに行く。細川護成は元熊本県知事・元総理大臣細川護熙(もりひろ) の大伯父。
 三山は3年半のパリ滞在中、池辺鉄崑崙の名で「巴里通信」を『日本』に掲載、日清戦争前後のヨーロッパの対日観や戦争観を伝えて好評だった。

 1897明治30年、『東京朝日新聞』主筆となり編集陣を刷新して紙面を充実。ナショナリズムに基づく権力への不偏不党的な言論活動を通じて、東京の新聞界で地歩を高めた。
 1907明治40年、文芸欄を新設して夏目漱石を『東京朝日新聞』の社員に迎え、漱石の作品を同紙が独占発表することになった。東京帝国大学教授を約束された漱石の朝日入社は、同紙への知識人読者の関心を高める契機となった。朝日の発行部数は急速に伸び、三山は長期にわたり主筆をつとめた。
 ところが、社内から長年の主筆、三山への不満が高まってきた。おりしも、新聞を通じ世論工作を行うとする桂太郎首相が三山への接近をはかった。三山がそれに応じると、三山への不信が社内ばかりか世間にも伝わった。
 1910明治43年、三山は村山竜平社長に辞意を申し出、朝日新聞を去った。
 1912明治45年2月28日、心臓疾患のため48歳の若さで急逝。
  ジャーナリスト政論記者・池辺三山は、陸羯南徳富蘇峰とともに明治の三大記者と称されている。

 

 

 

      池辺(小中村)義象 いけべよしたか

 

 1861文久元年、熊本藩士・池辺軍次の次男として生まれる。号は藤園。
 1877明治10年、西南戦争の後、伊勢の神宮教院で学ぶ。
 1882明治15年、東京大学古典講習科に入学。同級に落合直文関根正直がいた。
 1886明治19年、卒業。国学者・小中村清矩(こなかむらきよのり)の養子となる。
    この年、『東洋学会雑誌』を発刊。
 1888明治21年、宮内省図書寮属をへて第一中学校嘱託。
 1890明治23年、第一中学校教授となり、女子高等師範学校教授を兼ねる。次いで、帝室博物館歴史部員、史料編纂委員をつとめる。
 1897明治30年、池辺姓に復する。翌31年、パリに遊学、画家の浅井忠と出会う
 1901明治34年、帰国。翌35年、京都帝国大学講師。
   池辺義象は早くから古典の改良を意識していた。とはいえ筆者に古典は難しく手に余る。それでも、次の文からは知識を得ようとする人間への理解がうかがわれ、人間味を感じる。それにしても、国文学者・法制史家・歌人の池辺義象は熊本人である。千葉県の村の図書館と、どんなつながりなんだろう。

   「図書館は人民の生命なり」(池辺義象)

 ――― 塵埃に埋もるる都市の人民が、時間を盗んで公園に集まるは何の為かというに、敢えて怠けんとのみにはあらず、少しにても新鮮の空気を吸い、青緑の草木をみていわゆる命の洗濯の必要あるが故なり・・・・・・図書館は何の為にあるか、言うまでもなく人々の知識の文庫にて・・・・・・図書館は人々に知識を与える一大文庫にして、都市の公園が、人民の生命たるがごとく、図書館もまた実に人民の生命なり。
          (千葉県香取郡常盤村『杜城図書館報告・第1』林為次郎1909)

Photo
 1907明治40年、『当世風俗五十番歌合』刊行。日露戦争後の世相を反映する職人歌合形式の掉尾を飾る作品、浅井忠の絵に池辺作の和歌を配した。
 写真は『当世風俗五十番歌合』の浅井忠の絵。近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ で読める。

 1914大正3年、宮内省臨時編集局編集、翌6年、御歌所寄人。
 1918大正7年、臨時帝室編集局編修官。
 1923大正12年3月6日、死去。63歳。

   池辺義象編著:
 『国学和歌改良論』、『大政三遷史』、『日本制度通』、『中等教育日本文典』『新撰日本外史』(ともに落合直文と共著)、『銀台公』、『偉人幽斎』その他。古典の校訂・注解・評釈にも多く関与した。
 歌人としては、詠草を雑誌『大八洲学会雑誌』『しきしま』などに発表した程度で、家集は公刊されていない。題詠が主のようす。

 

 

 

   参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『民間学事典・人名編』1997三省堂

|

« 伊能嘉矩・『台湾文化志』 & 坪井正五郎・弥生土器 (岩手県 & 江戸) | トップページ | 自由党員たびたび保釈、安瀬敬蔵(福島県) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 明治期、熊本出身二人の池辺、池辺義象・池辺三山:

« 伊能嘉矩・『台湾文化志』 & 坪井正五郎・弥生土器 (岩手県 & 江戸) | トップページ | 自由党員たびたび保釈、安瀬敬蔵(福島県) »