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2016年4月16日 (土)

伊能嘉矩・『台湾文化志』 & 坪井正五郎・弥生土器 (岩手県 & 江戸)

 坪井正五郎(つぼいしょうごろう)
 1863文久3年1月5日、江戸に生まれる。父は江戸後期の蘭医学者・坪井信道の養子の坪井信良(佐渡養順)。父の信良も幕府の奥医師をつとめた蘭方医。

 伊能嘉矩(いのうかのり)
 1867慶応3年5月9日、陸奥国閉伊郡横田村(岩手県遠野市東館町)に生まれる。伊能家は学者の家系で、学問の環境に恵まれていたので、祖父や周囲の学者から、修身・歴史・文章・国学などを聴講、伊能は早くから学問に親しんでいた。1874明治7年2月、小学校入学。
 1880明治13年、伊能、小学校全科を卒業。

 1884明治17年、坪井正五郎、東京帝国大学在学中に有坂鉊蔵・白井光太郎とともに本郷弥生町(東京都文京区向ヶ丘弥生)で*弥生式土器を発見する。同年「人類学界」を創立。
  *<市中及び近郊に存する太古の遺跡>(『東京案内』坪井正五郎1907裳華房)
  *〔弥生式土器発見の碑〕 https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/04/post-9c28.html

 1885明治18年3月、伊能は19歳で東京遊学。麹町区の斯文黌を受験し中等科終年期に編入され、寄宿舎に入ったが学資が払えず退学。
    5月、二松学舎に入り、柳塾第五房に住み「日本維新外史(漢文)」を書いた。苦労の日々であったが、ときに師範学校制度の改正があり、岩手県立師範学校が給費生を募り、伊能は推薦で入学できた。

 1886明治19年、坪井は「人類学雑誌」を創刊。伊能も人類学界入会。

 1889明治22年、坪井は東大理学部助手となり、翌23年から3年間イギリス留学。
   同年2月11日、憲法発布の日。伊能嘉矩ら岩手師範生徒4人が寄宿舎騒動を起こし放校された。
    時の文部大臣・森有礼が食事三食ともパンと肉類の洋食、時事に関する新聞雑誌類を退けたので反発して騒動を起こしたのである。有名な寄宿舎騒動であるが、放逐された4人は相前後して上京。
 伊能は筆耕により食費を得て図書館に通って勉学につとめた。その秋、伊能は「東京毎日新聞社」に入り編集事務の傍ら、私学に通い外国語などを補習。

 1891明治24年夏、伊能は「東京教育社」に入り、雑誌「教育報知」の編集を担当。
 1893明治26年、坪井はイギリスから帰国後、帝国大学理科大学教授として人類学を講義。
   伊能は、「大日本教育新聞」が再興されることになり招かれて同紙の編集長となり、その一方、坪井正五郎から人類学を学ぶ機会に恵まれた。
 1894明治27年、伊能は「人類学雑誌」に談話筆記<オシラ神につきて>を寄稿。これ以後も「人類学雑誌」に寄稿する。

 1895明治28年、伊能は、人類学の補助学として日本周囲諸民族の言語研究の必要を感じ、朝鮮支那語協会で清国人・滋肪について清国官話、山崎英夫および朝鮮人に朝鮮文を学んだ。また、北海道のアイヌ人バットレンについてアイヌ語を学ぶ。

  同年4月、日清戦争後、台湾が下関条約により清国から日本へ割譲され、台湾総督府設置。11月、伊能は植民地統治まもない台湾に渡航、はじめ陸軍省雇員の名義、のち総督府民政局につとめ事務をとる。
 台湾で伊能は、台湾土語(昔から使われている言葉)講習所に入り、通訳・吉島俊明および台湾人・陳文卿に厦門語系に属する台湾土語を修め、台湾在住の漢人に養われていたアイおよびイヴァンについて、アタイヤル種族の土語を研究し、かたわらマレイ語を自修。
 「人類学雑誌」12月号に<台湾通信第一回>を寄せた。
 やがて台湾の軍政を改め民政組織になると伊能は、総督府嘱託となり台湾の地理・歴史の研究に着手。台湾はこれまでの争乱で、文籍図書が散逸、史蹟など破壊されてしまったので、伊能は公私の旅を利用して蒐集につとめ、考証の資料とした。

 1899明治32年、坪井正五郎、理学博士となる。

 1900明治33年7月、伊能は台南県下を巡視、手記「南遊日乗」を残した。渡台後の約10年間、5回ほどの実地調査を行い、また、台湾関係書15冊のうち10冊もの著書を残した。
 伊能と台湾との関係はその臨終に至るまで連続し、台湾における調査編集で、伊能が直接関係しなかったものは少ないといわれる。
 1904明治37年10月2日、伊能嘉矩は、人類学会会長・坪井正五郎から人類学研究の功を顕彰される。

 1905明治38年、伊能は職を辞して日本に帰国。遠野町に帰郷後、『台湾文化志』を起稿、また、『大日本地名辞典』の「台湾の部」をはじめとして論文を執筆、発表。
  晩年まで郷土を研究、遠野を中心に調査研究および執筆活動を盛んに行った。伊能は、酒・たばこを嗜まず終日、書斎にこもって筆硯に親しむ生活だった。
  同年、坪井正五郎、帝国百科全書・博文館『普通人類学』八木奨三郎著を校閲。

 1906明治39年、坪井、帝国学士院会員。これまでに、足利古墳埼玉県吉見百穴東京西ヶ原貝塚芝公園丸山古墳群などを発掘調査し、日本考古学の発展に寄与した。また、日本原住民としてコロボックル説を提唱。
 ――― 先生の唱えられたコロボックル論、エスキモーとの類似説は、根拠を変わりやすい風俗習慣の類似に置き、然も両者の存在年月日に数千年の差のあるのを軽視したため、今日ではもう役に立たなくなってしまった・・・・・・しかしながらこれ畢竟、時勢の然らしめたのに外ならぬ。坪井先生の時代に於ては、専門学者だけにより外わからない様な深い論文よりも、人類学の概念の宣伝の方が必要だったのだ。当時、日本のどこに遺跡があって、如何なる遺物が発見されるかといおう概念すら不明であった。先生の語力はその存在の末期において、この目的を達せられた。而して直接間接に、弟子の多くを養成せられたのである。
                   (『日本原人の研究』清野謙次1925岡書院)

 1910明治43年11月18日、『石神問答』柳田国男著に次の 「陸中遠野なる伊能嘉矩氏より柳田へ」(柳田賢臺へ、陸中遠野村 伊能嘉矩)を掲載。この書簡は、日本各地の土俗・民間信仰・伝説などを資料として日本民俗学を研究する柳田の「山人説話シャクジン」についての説。

 1911明治44年、坪井正五郎、欧米学事視察に派遣される。

 1913大正2年、坪井より4歳下の伊能嘉矩、この年、『上閉伊郡志』を著す。
   同年5月26日、坪井正五郎、ロシアペテルブルグの第5回 万国学士院連合大会に日本代表として出席中、急性穿孔性腹膜炎のため客死。50歳。
  ―――理学博士坪井正五郎は、博士界のチャキチャキにして而もまた人類学者の大立者なり。新版図極北の人類を研究せんと欲し、去夏、鞭をあげて樺太に向ふ。彼地に着するに及んで、霖雨あいにく降り続き、濁水野に溢れて毎日宿屋の籠城を余儀なくされる。正五郎ここに於て紙を丸めて一個一個のテリテリ坊主をこしらへ、以て翌日の晴天を呪ふ、樺太の天地にテリテリ坊主のあれますは之を以て嚆矢となす。
                        (『名士奇聞録』嬌溢生1911実業之日本社)

 1925大正14年9月30日、伊能嘉矩、病のため死去。59歳。
  ―――(柳田国男) 伊能嘉矩は、人間の歴史をその基礎から観察しようという地方学問の独立宣言を最初に世に投じた人であった/先生は東奥遠野のみの奥人では無かった。日本一国の学者の態度を以てその郷土を愛し、またその郷土に立脚して、弘く内外の事相を学ばれた。たとへ学問は奥遠く、人の生涯はよし短くとも、その志は永く諸君の間に活き、且つ成長することであろう。

  伊能嘉矩の著作: 柳田国男が尽力して成った遺稿集『台湾文化志』(1928刀江書院)は名高い。/『台湾蕃人事情』1900/『台湾志』1902/  『遠野史叢』第1~7編/ 遺稿集『遠野夜話』。

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