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2016年4月 9日 (土)

仙台の交通と電気、電狸翁・伊藤清次郎 (宮城県)

 僕は、金沢の貧乏儒者の倅で、弟妹も多かったので、大学を出るとすぐに働いて金をとらなければならなかった。幸ひ電気といふ新しい学問をしたので、就職の心配はなかった・・・・・・僕はよい仕事をしたいと思って、伊藤清次郎君の仙台電気にしばらく居ったが、その時始めて、市外の三居沢川カーバイトの試験をやった。夜店で使ふ、アセチレン・ガスを造った・・・・・・三居沢川のカーバイト事業は、東京大学工学博士・藤山恒一君、日窒の市川誠次君、伊藤君の4人で事業化した(『今日を築くまで』1938*野口遵)

  *野口遵(したがう): 大正・昭和期の実業家。大正期、硫安製造に成功し、宮崎県延岡に日本最初のアンモニア合成工場を建設、昭和に入ると朝鮮へ進出、やがて20数社の社長を兼ね新興財閥を形成する。

            伊藤 清次郎

 1856安政3年4月18日(1856.5.21)、伊藤清治とよねの次男として仙台河原町で生まれる。髭をたくわえた表情が狸に似ていることから号を電狸、口述『仙台昔話 電狸翁夜話』がある。

 祖父の小西利兵衛仙台城下河原町の薬種・雑貨を営む富商で、藩への献金――二百両を仙台藩校(養賢堂)医学館へ献納して、士分(金上侍)武士身分を与えられ、利兵衛は次男の清治を分家し本姓の伊藤を名乗らせた。士籍をもつ肩書きは伊藤清次郎の日常の生活や精神形成に大きく関係した。これといった教育機関の門をくぐったことはないが、独学で機械・電気に強い関心を示した。
 13歳のとき、戊辰戦争で輪王寺宮が仙台に来駕したとき御附人となる。

Photo     伊藤清次郎邸

 1872明治5年、伊藤は、戊辰戦争で会津追討のみぎり、九条公のお供の医官用の馬車が東京から船で寒風沢に送られ、仙台に運ばれたものの放置されていた4台の払い下げを受け、新河原町に一般用として人力車営業を開始、営業者は清水総八と称した。
 1877明治10年4月、西南戦争の時、伊藤は仙台から消防巡査百名を引率して東京に上り、警視庁に送り届けた。その帰り、伊藤は馬車を買い求めて仙台に帰り、往来乗合馬車業を営み、屋号を仙里軒とした。これが、仙台における馬車営業の始まり。
 1884明治17年、仙台区会議員。

 1888明治21年7月1日、三居沢の宮城紡績会社(社長*菅克復) 藤山常一が、紡績機用の水車を利用して発電機を取り付け、烏崎山上にアーク灯1基、工場内白熱灯50灯の試験点灯に成功、東北に明かりを灯した。日本初の水力発電による電灯の灯りである。
   *菅克復(かんこくふく): 仙台支藩一ノ関藩士の家に生まれ、明治維新後、武士の失業救済に心を砕く。私財で綿織機器を購入機織場を設立して士族の子女に職を与えたり、三居沢に宮城紡績株式会社を創設した。
   *藤山常一: 父は幕末から明治にかけ活躍した技術者。特にガラス工芸、印刷、鉛筆製造などに顕著な実績を残した。野口遵に紹介され仙台電燈会社の技師長となる。

 1889明治22年、仙台市会議員
 1892明治25年、宮城県会議員

 1894明治27年、宮城水力紡績株式会社が発電事業を始めるにさいし菅克復社長は、伊藤清次郎を宮城紡績の取締役に招く。以後、伊藤は議員に返り咲きせず実業に力を尽くした。
 1899明治32年10月、宮城水力紡績製紙株式会社と仙台電灯株式会社が合併、「宮城紡績電灯株式会社」と社名を変更。伊藤清次郎は取締役社長となる。会社は広瀬川の河岸にあり、そこから遠くない眺望絶佳の所に三居沢不動がある。

 1903明治36年、日本初の*カーバイト製造を成功。三居沢カーバイド製造所は伊藤清次郎を社長として山三カーバイド会社を設立。さらに、野口遵と後輩の藤山常一、同級の*市川誠次、宮城紡績電灯の伊藤清次郎らが携わり、日本カーバイド商会を設立。カーバイド商会は、カーバイド製造に関する技術に改良を加え、窒素肥料として石灰窒素や硫安にする革新的な技術を発展させた。伊藤は協力を惜しまず、その推移を見守った。
   カーバイト: 炭化物。生石灰とコークスを電気炉で熱するとできる。水と反応してアセチレンガスを発生。肥料の原料になり、今日では人工繊維、調味料などに利用されている。
   *市川誠次:当時、「カーバイド1ポンド4銭のものを6~7銭で売り、事業拡張していった。日露戦争の最中には、旅順攻撃の爆薬にカーバイドがいるとのことで、13~14銭で売り、調子がよかった」。

 1906明治39年、伊藤は、仙台電灯会社(配電)を合併。宮城紡績電灯会社社長として電気の発展・普及に努めた。世人に「電気頭」と呼ばれ、自らも電狸と号した。同年、石灰窒素、硫安製造工場は電力を大量に消費するため、発電所の建設が必要となり、野口は電源開発会社・曽木電気を設立。1908明治41年、曽木電気と日本カーバイド商会が合併して日本窒素肥料となる。

 1911明治45年12月、伊藤はこれまで仙台の電気事業を牽引してきたが、電力事業の拡大に伴い、私企業として維持管理することが困難となってきた。そこで電気事業の全てを仙台市に移管することになった。
 1902大正元年、仙台市と宮城紡績電燈社長・伊藤清次郎との間で、譲渡に関する折衝が行われた。譲渡費については種々紆余曲折を経たが、東京帝国大学教授工学博士・山川義太郎の示した裁定額で妥結した。三居発電所は仙台市に移管後、東北配電株式会社をへて、1951昭和26年、東北電力株式会社となる。
 
  <三居沢電気百年館>HPより。  宮城の近代化遺産は、三居沢において進められた三事業所、宮城紡績会社・三居沢発電所・三居沢カーバイド製造所で構成されており、前にこれら3社の所在位置を示す鳥瞰図の設置を切望している(仙台市青葉区荒巻字三居沢)。

  1919大正8年、伊藤清次郎、仙台市街自動車会社(仙台市営バスの前身)の創設に参画。
 1933昭和8年3月3日、三陸地震・津波、死者3008人。義援金10円送る。
 1938昭和13年11月13日、死去。82歳。仙台・寿徳寺に眠る。
 「仙台昔語 電狸翁夜話」は、幕末から明治にかけての仙台の様子を知る第一級の資料となっている。筆者は未見だが、法政大学・早稲田大学図書館に所蔵されている。

    参考: http://www.tgmech.com/index.php?FrontPage さんえる(東北学院大学工学部機械の同窓会) / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『仙台繁昌記』1916富田広重 / 『仙台アルバム』1915白崎民輔(白崎写真所)

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