漢詩人・俳人父子、大須賀筠軒・大須賀乙字(福島県)
旅立ちの春、小学6年生は中学校の制服で卒業式に臨むことが多い。大震災と原発事故に遭った大熊町民の多くが学校ともども会津若松市に移転。大野・熊町小学校の生徒は一年間だけ大熊町の校舎で、あとは会津若松市内の校舎で学んだ。年々生徒が減るという厳しい現実。今春の卒業生は22名で、しかも進学先はあちこち分かれる。大熊中学へ9名、会津若松市内の中学8名、いわき・郡山市の中学3名、遠く九州福岡県の中学へ進学する卓球少年もいる。家族の都合で生活根拠地が変わるのは仕方なく無理もない。とはいえ、見送る先生方の心中は察して余りある。
ところで、いわき市内の中学に進学する生徒の先輩にあたるか分からないが、磐城ゆかりの学者と俳人の父子がいる。江戸時代に磐城を治めていたのは磐城平藩、幕末の平藩に儒学者・神林復所という人がいた。その末子が明治の漢詩人・大須賀筠軒で、その次男が明治・大正期を代表する俳人の一人、大須賀乙字である。
大須賀筠軒 (おおすが いんけん)
筠軒の漢詩、「平城の墟を望み、戊辰戦沒の諸子を憶うあり・・・・・・」長いので読み下した他詩を末尾に引用した。声に出して詠むといっそう胸せまる。
1841天保12年、福島県磐城で儒者・神林復所の末子として生まれる。
幼い頃、四書・五経の素読を受ける。若くして昌平黌に入り、安積艮斎に学んだのち平藩儒学者となる。
1864元治元年、24歳で大須賀家の養子になるが、義父は詩酒を愛して家事を顧みず短い生涯だった。後を継いだ筠軒は家事の煩労を忘れようと各地を放浪し仙台に遊学、詩を大槻盤渓に学び、岡鹿門と交流し親しくなった。
1865~68慶応年間、逼迫している藩財政のために荒れ地を開拓して藩費の不足を補うことを献策。ところが有司の怒りに触れ禁錮となった。のち、赦されたが士籍を離脱。
1868明治維新後、以前の献策を藩公に認められ藩の督学となる。
1871明治4年7月、廃藩置県。大須賀は初代の相馬郡長(福島県行方・宇田二郡)となり、農村の振興・教育の奨励に努め、みるべきものがあった。
1881明治14年、乙字生まれる。筠軒は各地を放浪していたので、家には年若い妻と幼子(乙字)がつましい暮らしをしていた。
1882明治15年、官職をしりぞき、もっぱら文学に親しむ生活に入る。
1894明治27年、福島県安積中学の漢文教師となる。
1896明治29年、仙台第二高等中学校予科の漢文嘱託、ついで教授となる。
1901明治34年、教師を辞職して悠々自適の生活に入る。
佐沢香雪・永沼柏堂を指導する傍ら、友人の重野成斎・小野湖山・滝川君山らと交流を重ねる。土屋竹雨は門人。
1912大正1年8月28日、71歳で死去。
著書: 『舟門漁唱』 『緑筠軒詩鈔』など。
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大須賀乙字 (おおすが おつじ)
古暦なつかしき日の夢を繰る
夕焼のうつらふ空や合歓の花
踊子の負はれて戻る朧月
遠く夕立つて来る森音聞きゐたり
1881明治14年、福島県宇多郡中村町(のち相馬市)に生まれる。本名、績(いさお)。
母うめは後妻で夫や子に尽くし、手は松の膚のように荒れていた。乙字はそうした母の姿に
「弱々しい普通の女にとって涙多い生涯であったことを思えば、芸術に身をゆだねる者の周囲の惨めさに戦慄する」(自叙「現在に活くる過去」)と記す。
俳号乙字は『西陽雑狙』にある虎之威、虎の両脇にある威骨の形が乙字をなしているところから。
1895明治28年、父の勤務する福島県安積中学校(福島県立安積高等学校)へ入学。
1898明治31年、宮城県第一中学校へ転学。
1901明治34年、第二高等学校に入学。中学時代は野球、高校ではテニスに熱中し、佐藤紅緑らの「奥羽百文会」に参加する。
1904明治37年、東京帝国大学文学部国文科入学。在学中から河東碧梧桐の門下として才能を示した。率直な性格はしばしば誤解をまねき知友にも敵を作ることが多かった。
1905明治38年、「東京日日新聞」の俳句選者となる。
東大在学中に発表した「俳句界の新傾向」は俳論家としての名を高からしめた。活動期間は10年余りに過ぎなかったが、その間、正岡子規に代表される明治俳論史上に、新しく近代的な画期的ともいえる俳論の金字塔を打ち立てた。乙字俳論の基礎をなすものは革新的なロマンチシズムの精神ではなく、伝統尊重と芭蕉への復古精神に貫かれていた。その点では保守的であり、クラシックで乙字俳論の正統派的な性格と特色がある。
1908明治41年、東京大学卒業。「東京日日新聞」に[新俳風論]を載せ、論文は俳壇に大きな影響を与えた。卒業後、曹洞宗大学(現、駒澤大学)、東京音楽学校(現、東京芸術大学)の講師を兼任。
1910明治43年、高等女学校(現、麹町学園女子校)で教える。10月千代と結婚。
乙字は帝大出で学者一族の家系という毛並みの良さと文才を評価され、早くから新傾向俳句の旗手として嘱望された。同じ旧制二高出身で才能も評価された乙字に碧梧桐の期待は高かったが、同人同士の内部対立により離脱。
1915大正4年、妻千代病没。臼田亜浪と「石楠花」(しゃくなげ)を創刊、二句一章の型や「俳壇復古論」を主張して句作に励んだ。
1916大正5年4月、東京音楽学校(現、東京藝術大学)教師。年末、松井まつ子と再婚。
1917大正6年、『鬼城句集』を刊行。広く村上鬼城の句業を推奨した。
1919大正8年、同人間の軋轢から内紛を生じ「石楠花」を去る。
1920年大正9年1月10日、全国的に流行したインフルエンザ(スペイン風邪)にかかって40歳で永眠。
著書: 『乙字句集』『乙字俳論集』『乙字選碧梧桐句集』ほか。
参考: 『明治文學全集・明治漢詩文集』1983筑摩書房/ 『現代日本文学大事典』1965明治書院/ 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂
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大須賀筠軒
平城の墟を望み、戊辰戦沒の諸子を憶うあり。七古一篇を賦して之を弔う。
山河 襟帯 古の金湯
猶見る 城墟の夕陽に立つを
華表 鶴帰り 人何にか在る
老煙 枯木 秋 荒涼
憶い起こす 七州連衡のとき
百戦 此の地 王帥を扼す
大砲 雷の如く 小銃は雨
伏屍 縦横 血は杵を漂わす
一死 惟知る 其の君に報ずるを
草間 活を竊むは是狗鼠
嗚呼 君臣義を結びて三百春
危を見て命を授くる 幾人か有る
?公の輪に扣くは義士に非ず
夷吾の鉤を射る 或いは忠臣
当時 寧ぞ知らん 順逆を誤るを
此の心 何ぞ曽て甘んじて賊とならん
若し地を易えて錦旗を捧ぜ令めば
千秋 廟? 長く血食せん
君見ずや 口を勤王に藉りて赤誠無く
誠
去就 利を惟い 生死を争うを
昨日の忠臣 今日の賊
満地 戦塵 血腥を吹く
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