自由党員たびたび保釈、安瀬敬蔵(福島県)
安瀬敬蔵 (あんぜけいぞう)
1841天保12年、陸奥国田村郡堀田村(田村市)の庄屋の家に生まれる。
明治初年、河野広中と接し、奥羽振興について議論する。
1873明治6年、河野広中が常葉村*戸長のとき副戸長をつとめ、以後、磐前県(福島県東部)各地の戸長をつとめる。
*戸長: 郡区町村編制法下の町村の長。旧来の名主、庄屋層から編制され政府行政官と町村代表者の二面性をもつ。
旧相馬藩の有志、愛沢寧堅と謀り、政社を結ぼうとしたが、果たさず。河野広中と磐城平に会し、河野広中と土佐高知に赴き、板垣退助とあう。これにより喜多方地方に民権運動が芽生え、自由党の根強い地盤になった。
1877明治10年、喜多方町戸長となる。
1878明治11年、宇田一成らと愛身社を設立。戸長役場を社員の集会場に提供し、保管の物品を消費したとの嫌疑で、投獄される。
後藤象二郎が東北に来、東北七州会に出席。喜多方病院設立にもつとめた。
1879明治12年、コレラが流行、予防に尽力。
1880明治13年、愛国社再興大阪大会に代表を派遣し、国会開設請願書を提出。
1882明治15年2月、自由党会津部理に就任。3月、喜多方警察署襲撃事件(弾正カ原)が起きたが、事件前に兇徒嘯集の嫌疑で若松監獄に捕らわれ投獄、保釈。しかし、証拠はないが余罪があるとして再逮捕、また保釈。政府と対立する自由党への取締りが厳しかった。こういう時代への後戻りはない方がいいが、なぜか不安がよぎる。
1883明治16年3月、福島県令三島通庸の不正工事を宮城控訴院に告し有志とともに投獄されたが、保釈。
1884明治17年、高田事件の赤井景韶の逃亡幇助、加波山事件の三浦文次をかくまったとして逮捕、保釈された。この事件などもあり、士族から豪農層にかけ広い支持をうけた自由党だが、統率できなくなり解党する。
1886明治19年2月27日、安瀬は嫌疑がとけ釈放された。しかし昼夜を問わず探偵につきっきりで監視された。河野広中との接触を警戒された。
1887明治20年、不平等条約改正問題がおこり安瀬は上京しようとしたが、治安妨害の恐れのあるものを皇居外3里に追放という保安条例のため行けなかった。そこで、会津地方に赴き、自由党再興を目指した。
1888明治21年5月、おりしも後藤象二郎が大同団結を唱え、大同倶楽部設立委員として上京。のち会津五郡倶楽部を設立。
1889明治22年2月11日、大日本帝国憲法・衆議院議員選挙法が公布される。
1890明治23年7月、第1回衆議院議員選挙に自由党から立候補する。
この総選挙はわが国はじまって以来で取締る政府も経験がなく、選挙人もその知識が浅く選挙権は忠実に行使された。福島四区(南会津・北会津・大沼・耶麻・河沼)は定員一人。山口千代作が当選、安瀬と同志の宇田成一も落選。安瀬はその後も第4回まで立候補するが、いずれも及ばなかった。
立候補者8人の得票数は、山口千代作1372、三浦信六1053、山川浩849、佐藤泰治633、安瀬敬蔵370、柴四朗203、石川弥71、宇田成一38。
ちなみに福島三区の河野広中は1526票を得て当選(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)。
1981明治24年、郡山と新潟を会津経由で結ぶ鉄道(現在の磐越西線・磐越東線)の官設鉄道敷設運動起こる。
1892明治25年9月14日、自由党派を中心に岩越鉄道期成同盟会が設立される。自由党派は星亨をまねいて演説会を催すとともに、安瀬敬蔵らは10月に岩越線の実現を目的とする会津親民会を結成した。旧自由党の人脈がある安瀬は北越にも出向き、設立にむけて運動した。
岩越鉄道はその後、鉄道敷設法に盛り込まれたものの、政府が着工しなかったため、私設鉄道運動に変わり、岩越鉄道株式会社が認可され、1899明治32年、郡山・若松間が開通する。
晩年の安瀬敬蔵
福島町にて代言人をつとめ、若松町にて法律事務所を開く。また、*熊本移民合資会社・福島出張所代理人として活躍。
明治半ばころ、海外渡航ための移民会社ぞくぞく設立された。熊本移民会社、海外渡航株式会社(広島)、東京移民合資会社、森岡商会、日本移民合資会社(神戸)は、「五会社」と呼ばれた。五会社は関連の京浜銀行と共謀して、「見せ金」の貸借や預金関係で移民から金銭を搾取して、巨利をむさぼっていたという説もある。安瀬がそういうこともあるのを知っていたかどうか。
――― 資産があれば単独移住も可なり。募集期間にその土地の移民会社の代理人に応募し、その代理人または移民募集人の説明する移住地の事情を聞き取り、申込書に調印して手数料を納め、保証人を立てその上で移民会社と契約が成立する。代理人がうける手数料は一人につき8円位であるが、この手数料をかなり増加し、または自己の所得を多くするため、あらゆる曲事が行われる(『到富成功南米移住法』T7.7.20 大森清次郎 広友社出版部)。
*熊本移民会社:“明治期、ホノルルの名物男・勝沼富造(福島県三春)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/08/post-23d1.html
1903明治36年6月、郷里に帰る。
1908明治41年、死去。68歳。
参考: 『安瀬敬蔵君小伝』(福島県第四選挙区衆議院議員候補者)山寺清二郎 / 「うつくしま電子辞典」 /『明治時代史辞典』吉川弘文館 / 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社
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